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[サヴォイア系図、年代] [サヴォイア地図]/ [フランス]/ [スイス]/ [イタリア]/

Savoie/Savoiaサヴォワ/サヴォイア王家の歴史記事:・・追記中
  ⇒★時系列

   ●最新状況<<< 2016.12.25 (本サイトに登場する紀行などを、⇒およそ北から南に並べる。

<全体像:サヴォイア家系図中心>
●サヴォイア伯、サヴォイア公国、サルデーニャ王国、イタリア王国の歴代君主・国王

Umberto I Biancamano
【Umberto I Biancamano】
<Savoyサヴォイア家の創立/起源>
・10世紀に、アオスタはKingdom of Burgundyブルゴーニュ王(Royaume de Bourgogneブルグント王国)の一部になった。

・ウンベルト1世Umberto I (980頃-1048)が、サヴォイア家を創立。

・ウンベルト1世は、ブルゴーニュ大公ルドルフの妻(Ermengarde/Hermengarde)の信頼を得、ルドルフの後継者として頭角を現わした。

・1032年にブルグンドのルドルフ家(最後の王Rodolphe III)が断絶した。ウンベルト1世はルドルフの継承者「神聖ローマ皇帝コンラート2世」に忠誠を誓い、ブロワ伯オド2世 (Odo II, Count of Blois) やミラノ大司教アリベルト (Aribert (archbishop of Milan))の戦いでコンラート2世を助けた。

・この功績で、神聖ローマ皇帝からSavoyサヴォイア伯爵の爵位を得、Maurienne モーリエンヌ、Chablaisシャブレー、Tarentaise Valleyタレンテーズを新たに与えた。(神聖ローマ帝国に組み入れ)

・初代サヴォイア伯(Savoy家)の起源となる。

 (戦いなく領土を広げたことなどから、「白い手:ホワイトハンズ/Biancamanoビアンカマーノ」と呼ばれることになった)

 (1032年、Yvoireイヴォワールの城はウンベルトが建てた説がある。)

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【13-16世紀のサヴォワ】


【1450年頃のサヴォイア公国】
サヴォイア伯:歴代君主
Umberto I Biancamano (inizia la Branca Comitale)ウンベルト1世・ビアンカマーノ「白い手」(1003-1047or1048年)
・Amedeo I detto Codaアメデーオ1世・コーダ(1048-1051or1056年)
・Oddoneオッドーネ(1051or1056-1060年)
・Pietro Iピエトロ1世(1060-1078年)
・Amedeo IIアメデーオ2世(1078-1080年)
・Umberto IIウンベルト2世(1080-1103年)
・Amedeo IIIアメデーオ3世(1103-1148年)
・Umberto IIIウンベルト3世(1148-1189年)
・Tommaso Iトンマーゾ1世(1189-1233年)
Amedeo IVアメデーオ4世(1233-1253年)
Bonifacioボニファチオ(1253-1263年)
・Pietro IIピエトロ2世(1263-1268年)
・Filippo I (si estingue la Branca Comitale)フィリッポ1世(1268-1285年)
・Amedeo V (inizia la Branca Ducale)アメデーオ5世(1285-1323年)
・Edoardoエドアルド(1323-1329年)
・Aimoneアイモーネ(1329-1343年)
・Amedeo VIアメデーオ6世(1343-1383年)
・Amedeo VIIアメデーオ7世(1383-1391年)
・Amedeo VIII diventa Duca di Savoiaアメデーオ8世(1391-1416年)


1416年、神聖ローマ皇帝ジギスムントから公位を授かり公国が成立。
サヴォイア公国:歴代君主
1.Amadeus VIIIアメデーオ8世(1416-1440年) 対立教皇フェリクス5世(在位:1439年 - 1449年)
2.Louisルドヴィーコ(1440-1465年)
3.Amadeus IXアメデーオ9世(1465-1472年)
4.Philibert Iフィリベルト1世(1472-1482年)
5.Carlo Iカルロ1世(1482-1490年)
6.Charles (II) John Amadeusカルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ(1490-1496年)
7.Philip IIフィリッポ2世(1496-1497年)
8.Philibert IIフィリベルト2世(1497-1504年)
9.Charles IIIカルロ2世(1504-1553年)
10.Emmanuel Philibertエマヌエーレ・フィリベルト(1553-1580年)
11.Charles Emmanuel Iカルロ・エマヌエーレ1世(1580-1630年)
12.Victor Amadeus Iヴィットーリオ・アメデーオ1世(1630-1637年)
13.Francis Hyacinthフランチェスコ・ジャチント(1637-1638年)
14.Charles Emmanuel IIカルロ・エマヌエーレ2世(1638-1675年)

15.Victor Amadeus IIヴィットーリオ・アメデーオ2世(1675-1730年)
以後1860年までサルデーニャ王がサヴォイア公を兼ねた。

1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得。
1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。

サルデーニャ王国King of Sardinia:歴代国王
1.Victor Amadeus IIヴィットーリオ・アメデーオ2世(1720-1730年)
2.Charles Emmanuel IIIカルロ・エマヌエーレ3世(1730-1773年)
3.Victor Amadeus IIIヴィットーリオ・アメデーオ3世(1773年-1796年)
4.Charles Emmanuel IV カルロ・エマヌエーレ4世(1796-1802年)
5.Victor Emmanuel Iヴィットーリオ・エマヌエーレ1世(1802-1821年)
6.Charles Felix of Sardiniaカルロ・フェリーチェ(1821-1831年)
7.Charles Albert of Sardiniaカルロ・アルベルト(1831-1849年)
Victor Emmanuel II
【イタリア統一を果たしたVittorio-Emanuele- II】
8.Victor Emmanuel IIヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1849-1861年) → イタリア国王へ
 イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王家となる。

イタリア王国:歴代国王
・Victor Emmanuel IIヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(在位:1861年 - 1878年)
・Umberto Iウンベルト1世         (在位:1878年 - 1900年)
・Victor Emmanuel IIIヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(在位:1900年 - 1946年)
・Umberto IIウンベルト2世         (在位:1946年)⇒以降イタリア共和国
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●Savoie サヴォワ/サヴォイヤ伯、サヴォイア公・サルデーニャ王、イタリア王家系図 URL
サヴォイア家(伊: Casa di Savoia)【wiki/サヴォイア家】
Casa_Savoia
Histoire de la Maison de Savoie
http://nekhet.ddo.jp/people/savoy.html【サヴォイア家系図】
http://www9.wind.ne.jp/【サヴォイア伯家 系図】 【公家】 【王家】



サヴォワ王国・歴史地図

<全体像:サヴォイア領域・地図中心>

地図から:フランス+スイス+イタリア

紀行:2005年サヴォワ(サヴォイア)王国の峠、ジュラ分水嶺の旅
blason-savoieサヴォワ家・紋章 ・サヴォワのエリアを調べていると、かつての歴史地図を見つけました。そしてそこにはかつてスイスのヌシャテルから、グランサンベルナルド峠、アオスタまでもを領土にした「サヴォワ王国/サヴォイア家」が現れます。

 11世紀中ばに「白い手」と呼ばれたウンベルト1世がサヴォイア家(サヴォイア伯)を創って以降、リヨン付近から順次東へと領土を広げ、サルディーニャ王を名乗り(1720年)、ついにはイタリア統一の軸に、イタリア国王(1861年)になったのです。その1860年の時点で現在のサヴォワ地方、ニースがフランスに割譲されたのです。


●本サイトに登場する紀行など:一覧:Google検索

本サイトに登場する紀行など

⇒以下は基本的に ●国境を北から南に(スイスからイタリアに)並べる



●スイス:モス峠〜エーグルAigle:紀行:2005年

https://www.eu-alps.com/r-site/do-2005/910/910col-mosses.htm
 サヴォワ王国の歴史地図を見ながら、この付近を調べてみると、かつてスイスのヌシャテルから、グランサンベルナルド峠、ジュネーブまでもを領土にした「サヴォワ王国/サヴォイア家」が見えてきます。11世紀中ばに「白い手」と呼ばれたウンベルト1世がサヴォイア家(サヴォイア伯)を創って以降、リヨン付近から順次東へと領土を広げていったのです。

 シヨン城のところでも書きましたが、レマン湖の東付近は、紀元前から通行の関門になっていた場所。カエサル(シーザー)の時代、古代ローマの時代にもグラン・サンベルナルド峠などのアルプス越えの、物資の交流のメインルートだったのです。 【Chillonシヨン城とAigleエーグル城の位置。エーグルを確保すれば、シヨンでの税金は払わずに交易できる】

 古代ローマ時代、グラン・サンベルナルド峠からレマン湖岸を抜けVeveyヴヴェ・ベルンに抜ける道が主要道路とすると、ここエーグルAigleからモス峠Col des Mosses(1445m)を経てシャトー・デーChateau-d'Oex、ベルンに抜ける道はその裏道。この裏道、乗り物も使えるような道路に整備されたのが1871年と、極めて遅いのです。

 でもこの裏道を使ってイタリア・ローマとベルン間を交易すれば、シヨン城でのサヴォワの関税は不要になります。スイス・ベルン人としてもエーグルを確保したいでしょうね。

 ということで、シヨン城とエーグル城はどちらが先にスイス領になったのかの歴史を調べてみました。


●スイス:Chateau de Chillonシヨン城付近の地形と歴史:紀行:2005年:

https://www.eu-alps.com/r-site/do-2005/908/908rochers-de-naye.htm
 Chateau de Chillonシヨン城(シオン城) がレマン湖に張り出し、例のギザギザの山、Dents du Midiダン・デュ・ミディ(3257m)が遠くに見えています。この山の急斜面が湖に張り出した場所は、関所として最高の立地にありますね。

Rochers de Naye
【1226.jpg:急斜面が湖に張り出したところにシヨン城が見える。遠方の山は、ダン・デュ・ミディDents du Midi山群(3,257m)】

<Chateau de Chillonシヨン城付近の地形と歴史>

古代ローマの道  レマン湖に張り出したシヨン城付近は、紀元前から通行の関門になっていた場所。

●カエサル(シーザー)以前と、「古代ローマの道」の歴史
・現在のスイスに住んでいたケルト人(ヘルウェティイー族など)は、グラン・サンベルナルド峠などのアルプスを越え、ローマ側と物資の交流などを行っていた。
・BC58-53年のカエサル(シーザー)のガリア戦記でもこの付近が登場する。
古代ローマ時代、道路整備が行われたが、このグラン・サンベルナルド峠からレマン湖岸を抜けVeveyヴヴェ〜バーゼル方面。またヴヴェ〜ジュネーヴを通過するルートが主要な道であった。(ヘルマン・シュライバー)
・このアルプス超え物資の通行税を取る場所としての要になったのが、ここヴヴェの東の極めて狭い湖岸の場所である。

●シヨン城の歴史
・9世紀頃にレマン湖に突き出た岩島の上に、街道の監視、通行税・物品税をかけるための関所が作られた。
・城を拡大したSionシオン大司教の所有だったが、1150年頃からサヴォワ(サボア/サヴォイア)伯爵家の所有になる。
・13世紀にかけて改修を繰り返し、現在の城の基盤が作られた。
・13〜14世紀にはサヴォワ公の夏の居城として繁栄。
・1532-36年には宗教改革推進派のボニバールが捕らえられ、地下牢に幽閉される。
・1536年、プロテスタント教徒の攻略で城はベルン人のものとなり、ボニバールも開放された。
・19世紀にデュマ、ユーゴー、ターナー、バイロン『シヨン城の囚人』など多くの詩人、画家、作家の作品に登場し、スイスの代表的風景として世界に名を知られていった。

 ○http://www.chillon.ch/【シヨン城サイト】
 ○http://www1.linkclub.or.jp/~swiss/photo/Montreux1.html【スイスのページ】
 ○http://www.myswiss.jp/castle/chillon.htm【マイスイス】



●スイス/フランス国境:Montetsモンテ峠、Forclazフォルクラ峠:Larche:Montetsモンテ峠、Forclazフォルクラ峠:紀行:2002年

https://www.eu-alps.com/o-site/do-2002/624/624col-forclaz.htm
国境線と分水嶺
【赤の点線は地形上の分水嶺。
流域はスイスだが、フランス領である】
★Montetsモンテ峠、Forclazフォルクラ峠と国境

 このフランスとスイスの国境は、モンテ峠(1461m=Arveアルブ川:Eau-Noire川〜Trient川の中分水嶺)と、フォルクラ峠(1527m=Trient川:Drande川支流の小さな分水嶺)の中ほどにあります。
 ふつうは峠(大きな分水嶺)が国境になっているのに、ここの国境は本来のスイスエリアに食い込んでいます。フランス:スイスの紛争があったようには見えないのになぜなのでしょう。
 どんな歴史からこの国境はできたのでしょうか・・・推測してみます。
(さらに調査していきますが、皆さんでお判りの方がありましたら、教えてください。)

<フォルクラ峠はなぜ必要だったのか?>
 ・Trient川に沿った下りの地形は、街道を作るのにはがあまりに厳しいのでは?
  (近世に川に沿った鉄道ルートが作られるが、トンネルを連続せざるを得ないような大変な地形)
 ・そのためフォルクラ峠に迂回ルートを作った。
 ・モンテ峠に近いVallorcineの村人は、この地理から考えフランス側への交流が多かったのではないか?
 ・・・


<このエリアの支配・領土・国家などの歴史>
 ・BC4世紀頃:ケルト人
 ・BC52年頃:ガリア・・・カエサルのガリア征服・・ローマ帝国〜476年
 ・534年頃〜:フランク王国
 ・1032年頃〜:ブルクント王国
 ・12〜14世紀〜:サヴォワ(サヴォイア)領
 ・1792-93年〜:サヴォワはナポレオン軍により、フランスの占領地に。
 ・1815年(ウィーン会議)-1848年(憲法):ナポレオン失脚後、スイス・ヴァリス州はスイスに加盟する。

 ・1860年:サルデーニャ王はサヴォワ地方、ニース地方をフランスに割譲
  (・・・想定:この頃スイス国境の分割が行われたのでは?)
  (・・・想定:サヴォワを分割し、フランス/スイスの選択時、住民投票などで決定したのでは?)

 ・1967-75年:Emossonエモッソンダムはフランス・スイスの共同で建設された。湖はスイスにあるが、アーチダムの堤防はフランス国境。
  発電設備はフランス側=Chatelard-Vallorcine、スイス側=La-Batiazにある。


<参考>
 ・他の国境の入り組んだ地も参考に
 ・http://train.mt.blanc.free.fr/histo/siecle.html【1907.11.1Montetsトンネル開通 】
 ☆Emossonエモッソン湖【ダム湖周辺へのハイキングコースなど】


●フランス:Yvoireイヴォワール:紀行:2009年


【Yvoireイヴォワール城】https://www.eu-alps.com/v-site/do-2009/709/709yvoire.htm



●フランス:シャンベリー:紀行:2007年:

https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/607/607chambery.htm
●サヴォワ王国の歴史と330年間の首都  このシャンベリーは1232年〜1562年の330年間にわたって、サヴォワ王国の首都でした。王国の歴史地図でわかるように、その領土は北はヌシャテル湖南、西はソーヌ川、南はニース、東はトリノのさらに東にも及んでいました。

 1526年宗教改革の何年もの戦いの後に、サヴォワはジュネーブ地域を失いました。このヴォー州がスイスに加盟したのは1536年のことです。この年フランソワ1世がサヴォワに侵略、以降23年間フランスに占領統合されてしまいます。アンリ2世を破ったエマヌエレ・フィリベルトのおかげで領土を回復し、1562年フランスから遠いトリノに首都を移転したわけです。

 1860年、サヴォワ王国(既に1720年サルディニア王国となっていた)は、フランスのサヴォワとニースのエリアをフランスに割譲します。ハプスブルク家のオーストリアに対抗して、イタリアを統一するには、フランスの協力が不可欠だったためで、イタリアは翌年の1861年サルディーニャ王国を軸にようやく統一を果たしたのです。




●かつてのサヴォイア王家の地:フランス・イタリア国境アルプスの峠と渓谷を行く:紀行:2010年

フランスの谷の奥は、スキーリゾートのひどい自然破壊!! サヴォイア王家の自然保護政策は、実に素晴らしい財産・・ (フランスアルプス=イタリア・フランス国境・・1カ月の旅)(2010/6/9〜7/8)



●トラヴェルセッテ峠のトンネル情報: (海抜2882m:Buco di Viso/Monte_Viso_tunnel):I-Site

https://www.eu-alps.com/i-site/cols/data/n0005.htm
・モンヴィーゾトンネルは、この峠の頂上(2950m)から68m下に75mの長さのトンネル(海抜2882m)で、1478年から始まり1480年に開通した。アルプスで最初に掘られたトンネルである。

HumbertII Philip VI ・トンネル建設の約30年前、峠の西側はフランス王国領のドフィーネDauphine地域となっていた。
(1349年、Vienneヴィエンヌのドフィーネ公(HumbertIIウンベール2世:(在1333-49:1355死)=神聖ローマ帝国側の諸侯)は、財政難と男子継承者不在の為、世襲領地と称号をフランス王(Philip VIフィリップ6世(在1328-50))に売り渡した。ヴィエンヌの大司教は、異議申立てをしたが1449年に屈服しフランス王に領土を引き渡した)

サルッツオ公爵ルードヴィコ2世
・建設当時、峠の東側と南エリアは神聖ローマ帝国側の、サルッツオSaluzzo公爵Ludovico IIルードヴィコ2世(在1475-1503)の領地。(峠の北側はサヴォイエ公国領)
フリードリヒ3世 ルイ11世 ・トンネル建設は、峠西側のフランスはLouisXIルイ11世(在1461-83)の時代であり、ルイの主導でSaluzzoサルッツオ公爵が建設との記録ある。(アブリエスのパンフから)

・神聖ローマ帝国の皇帝FriedrichIIIフリードリヒ3世(在1452-93)も、サルッツオ侯爵に工事遂行の勅許証を授けた。

・小国サルッツオSaluzzo地域は、周囲をサヴォワ王国領に囲まれ、フランスとの力を得たバランスで独立を保っておいた。西のドフィーネ・エリアと、サルッツオ・エリアとの大きな交易のためには、アルプスのトンネルが必要であった。

【DauphineとMARsat Saluces公爵領の境にトンネル。紫色はサヴォワ領】


・しかしサルッツオは結局1548年にフランスに占領された後、1601年にサヴォアに譲渡された。

ガリレオ・ガリレイGalileo Galilei(1564-1642)がこのトンネルを通過した記録がある。

・トンネルは一度閉鎖後、1907年に再開通した。【トンネル情報

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・約80km南東にあるTenda tunnelテンダ(タンド)・トンネルは、「1450年にトンネル建設を始めたが、完成することはなかった」との情報があります。トラヴェルセッテ・トンネル開通より30年も前。当時テンダ峠の両側はサヴォワ公国でしたから、神聖ローマ皇帝の許可は不要だったのでしょう。しかし、サルッツオ公爵は隣国のトンネル工事開始も、皇帝許諾のための材料に使ったと推測できます。


●Barcelonetteバルスロネットの概略歴史:紀行:2010年

https://www.eu-alps.com/w-site/do-2010/619/619barcelonette.htm

●Barcelonetteバルスロネットの概略歴史

・1231年、神聖ローマ帝国・プロヴァンス伯 Ramon Berenguer IV の城砦都市として創建される。
・1388年からはサヴォワ伯の支配地となった。
・1713年のユトレヒト条約(スペイン王位継承戦争の一連の講和条約)で、フランス領となる。
・1814年から1955年にかけて、バルスロンネットや周囲のUbayeの谷の住人は、メキシコに移住し、メキシコとバルスロンネットの間で主に繊維事業を設立。
・成功した彼ら家族の一部は帰国し「バルスロネット人といわれる」、町の近郊に大邸宅を建てて住んでいる。
・今でもメキシコのMonterrey, Mexico City , San Luis Potosi , Pueblaにはその子孫が多数住み、友好関係を続けている。

http://www.beyond.fr/【Barcelonnette-provence-france】
http://en.wikipedia.org/【wiki/Barcelonnette】
http://www.barcelonnette.fr/【Barcelonnetteガイド。サンピエールリンク教会の説明

●Jacques-Antoine Manuelジャック=アントワーヌマヌエル(1775〜1827年)

・バルスロネット郊外の、La Conchette, Enchastrayes出身
・17歳で軍に入隊、すぐに将校になり、ナポレオンボナパルトのイタリア・Arcoleアルコル橋の戦い(1796.11.15-17)で負傷し、軍歴を終了。以降弁護士・国会議員になる。
・1823年、フランスのスペイン遠征に反対し下院から追放された。
・バルスロネットの広場に肖像がある。

http://en.wikipedia.org/【wiki/Jacques-Antoine_Manuelバルスロネット出身】


●Larche ラルシュ村:Larche:ラルシュ、フランスイタリア国境周辺の領地・領土・戦いの変遷:紀行:2002年

https://www.eu-alps.com/o-site/do-2002/617/617larche-villa2.htm

●このLarche:ラルシュ、フランスイタリア国境周辺の領地・領土・戦いの変遷を調べてみました。(西側:東側で記述)

<アルプスをはさんだ西東は、激しく領地争いが絶えません。
 その主要街道・峠のラルシュの村の歴史は、まさに戦いの歴史だったように見えます。>

 ・〜BC600年頃:リグリア人の領地
 ・BC400年頃:ケルト人の領地・・・ケルト人が南下
 ・BC218年頃:ガリア(ゴール)人とケルト人(ゴール人の祖先といわれる)の境界・・・ハンニバルのアルプス越え
 ・〜BC121年頃:カルタゴとローマの戦い:ポエニ戦争・・・→ローマに併合
 ・BC31年頃:ローマ帝国:帝国属州と元老院属州との境界・・・ユリウス・カエサル時代

 ・300年頃:ディオクレティアヌスのガリア管区とイリュリア管区の境界・・・ローマ帝国の再編
 ・450年頃:ブルグント王国と東ゴート王国との境界・・・ゲルマン民族の大移動

 ・540年頃:フランク帝国とダルマティアとの境界・・・ユスティニアヌスの再征服
 ・814年頃:カール大帝(フランク王国)・・・遠征と領土拡大でキリスト教帝国を
 ・910年頃:東フランク王国(低地ブルグント、高地ブルグント)とイタリア王国の境界・・・イスラム勢力との戦い

 ・1152年頃:ブルグント王国とイタリア王国の境界
 ・1200年頃:神聖ローマ帝国・・・十字軍の聖地解放
 ・1250年頃:ビザンツ帝国・・・コンスタンティノープル占領

 ・1600年頃:フランス:サヴォワ公国:モデルナ:ミラノ公国の境界・・・フランスの領土拡大/宗教改革/ハプスブルク帝国
 ・1790年頃:フランス:サヴォワ:サルデーニャ王国の境界・・・フランス革命
 ・1812年頃:ナポレオン帝国・・・ナポレオンによる領土拡大
 ・1815年頃:フランスとサルデーニャ王国の境界・・・ウィーン会議
 ・〜1860年頃:フランス:サヴォワ:サルデーニャ王国の境界・・・イタリア統一
 ・1914年頃:フランスとイタリアの境界・・・第一次世界大戦/民主主義体制とファシズム体制
 ・1940年:フランス・ヴィシー政権(フランス親独)とイタリア(ドイツ軍管轄)の境界・・・第二次世界大戦
 ・1945年:フランスとイタリアの境界

 ・・・1949年:NATO加盟/1995年ECヨーロッパ共同体加盟/2001年ユーロ通貨統合流通
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●第二次世界大戦とフランス南東部・イタリア北西部=国境周辺の状況

<ドイツの占領下、フランス・イタリアともレジスタンス活動が展開され、国境周辺に残ったドイツ軍との間で
 大戦の終結直前まで激しい戦闘が続いた模様です。
  それが村役場の壁にある・・・1945.4.22-25の戦闘の記念プレートなのでしょう。>

 ・1939年9月 1日:ドイツがポーランドに侵入すると、イタリアも参戦を決定。
 ・1940年5月10日:ドイツがオランダ・ベルギー(西部戦線)〜フランスに侵攻。
   英仏の抵抗は弱く翌6月にはフランスは降伏・休戦協定。
   フランス北西部はドイツの占領下に、中部・南部は親独のヴィッシー政権(ペタン元帥)が統治。
 ・1940年6月18日:ド・ゴールの呼びかけでレジスタンス(抵抗運動)の展開。
   自由フランス軍が組織、連合軍側について戦闘参加。
 ・1942年:フランス全土はドイツ軍の占領下に。

 ・1943年7月:連合軍がシチリアに上陸
 ・   7月25日:ムッソリーニは首相を解任され逮捕(ローマ東方の山地の山荘に監禁)。
 ・   7月26日:Duccio Galimbertiがクーネオで対ファシスト抵抗の演説
 ・   9月8日:ムッソリーニ後任のピエトロ・バドリオ首相は無条件降伏。イタリア政府(南イタリア)は連合側に。
 ・   9月12日:ドイツ軍は特殊部隊がムッソリーニを救出。
 ・   9月23日:ドイツはファシスト政権かいらいのイタリア社会共和国をサローに樹立
 ・   10月頃:イタリア北部はドイツ軍の管轄におかれ、戦闘が繰り返される。
   北イタリア各地で、パルチザンによるレジスタンス運動が展開される。
   (Colle de Jouxジュー峠Pont Saint Martinポン・サン・マルタンCuorgneクオルニェ)

 ・1944年夏:イタリア北部のドイツ軍はポー川沿いに防衛線(ゴシック線)を築き戦闘。
 ・1944年6月 6日:連合軍のノルマンディ上陸。8月プロヴァンス上陸。8月25日パリ開放。
   (Lisリス峠(1311m)は1944.7.2まで)

 ・1945年3月末〜:フランス山岳師団はプティ・サンベルナール峠イズラン峠モンスニ峠でドイツ軍を撃破。
 ・   4月10日〜:ラルシュ峠ロンバルデ峠も含み激戦。(7日後に峠奪取)
 ・   4月22-25日:このラルシュ村での激しい戦い
 ・   4月25日:連合軍によってミラノ開放。イタリア全土で戦闘が終結(フランス国境はドイツ軍が残存)。
 ・   4月28日:アルプス派遣隊(連合軍)、国境の北・中・南の峠から総攻撃・進撃。アオスタ・トリノ・インペリア占領
 ・   4月28日:ムッソリーニ逮捕・処刑
 ・   4月30日:ヒトラー自殺。
 ・   5月 2日:アルプス地区のドイツイタリア軍部隊、降伏
 ・   5月 8日ドイツ軍無条件降伏。

    (参考資料:『ヨーロッパ大陸歴史地図(東洋書林)』、『フランス開放戦争史(柏木明:原書房)』など)


●Col de la Bonetteボネット峠群:紀行:2010年

https://www.eu-alps.com/w-site/do-2010/617/617col-bonette.htm
13-16Cサヴィワ王国地図
【13-16Cのサヴィワ王国の歴史地図:クリックで拡大】
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●この3つの峠群付近の歴史について再整理してみます・・


 あの峠談義をした以降、フランスとイタリアの国境を旅する機会も何度もありました。2002年(O-Site)、2005年(R-Site)、2007年(T-Site)、そして今回2010年(W-Site)。

 この峠付近の歴史地図を見ると、ローマ帝国の滅亡(476年)後、
ブルグント/東ゴート王国〜ランゴバルト王国〜(800年)フランク王国〜(843年)イタリア王国〜プロヴァンス伯/ピエモント伯などの領土/境界になったあと、15世紀からはフランス王国とサヴォワ伯・公・王国の境界になっていたように見えます。

 そしてサヴォワ伯は、公、王国と領土を広げながら、強国であるフランス王国とのせめぎ合いの後、サルデーニャ王となり1861年にはイタリアを統一する国王になったのです。このイタリア独立前後の状況と、この3つの峠群について再整理してみましょう。
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●1860年まで、ここはイタリア:フランスの国境だった・・


nizza1860 【薄茶色+薄緑色+黄色エリア:1388年以降サヴォワ王国領(1720〜サルディーニャ王国領)。 ⇒薄茶色エリア:1860年フランスに割譲。 ⇒薄緑色エリア:第二次大戦後の1947年フランス領になる。
 by wikipedia・・・・2007年の紀行:<ニース付近の支配関係・歴史>参照
フランス皇帝ナポレオン3世  フランスの大統領から皇帝になった「ナポレオン3世(1808〜1873年)」はイタリア独立戦争を援助し、1860年3月 サルデーニャ王+サヴォイア公(イタリア国王)「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-1878年)」から、サヴォワとニースを獲得します。

 これによりそれまで国境の主要峠だった「Col des Grangesグランジュ峠/Col de Raspaillonラスパイヨン峠」、「Moutiereムディエール峠」の南一帯が、フランス領となったのです。現在の「ボネット峠」は地形的に、わき道だったと思われます。
 2007年の紀行:<ニース付近の支配関係・歴史>参照


ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世  しかし、このCime de Bonetteボネット山一帯(山頂・峠・その経路地)はきわめて眺望がきく位置にあって、防衛上も有効な場所だったことから、1860年8月18日ナポレオン3世によって軍事道路などが開かれ、以降軍事用として重要なポイントとして使われたのです。

 約200年後、第一次、第二次大戦の終わった1961年にこの一帯は一般に公開利用され、Route des Grandes Alpesフランス・アルプス縦断ルート/大アルプス・ルート、1962年にはツールドフランスTour-de-Franceもこの峠を通過したのです。


●Sospel ソスペル:ニース付近の支配関係・歴史:紀行:2007年

https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/610/610sospel2.htm
nizza1860 【薄茶色+薄緑色+黄色エリア:1388年以降サヴォワ王国領(1720〜サルディーニャ王国領)。⇒薄茶色エリア:1860年フランスに割譲。⇒薄緑色エリア:第二次大戦後の1947年フランス領になる。by wikipedia

〜:ガリア・エトルリアの境界で、イオニア・ギリシャ人の植民都市がいくつも出来る BC3C〜:カルタゴ・イタリアの領土拡大に伴う侵略/殖民都市が出来る
BC13-6:ローマ皇帝アウグストスにより、このエリアのガリアは古代ローマに支配される
〜476:ローマ帝国領
〜:オドアケル王国/東ゴート王国/ランゴバルド王国領
770頃〜:フランク王国領
870〜:プロヴァンスProvence伯領/皇帝ルイ2世領/ブルグント公領(神聖ローマ帝国)/
1388:サヴォイ伯爵(Savoy Amedee VII)領→1416:公爵(公国)領
1536-59:フランスがサヴォワ地方を占領、ハプスブルク家と組み旧領回復。1563首都はシャンベリーからトリノに移る。
1691、1706:フランスのサヴォイ公国攻撃が繰り返される
1720:サルディニア王国領
1744-48:フランスが占領、イギリスと同盟し旧領回復
1792-1814:ナポレオン1世によりフランス領。1815:失脚により旧領に回復
(1859:フランス(ナポレオン3世)の手助けもあり、サルディーニャ王国(イタリア)はオーストリアからロンバルディアを獲得・併合)
1860:サルディーニャ王国はサヴォイ、ニースエリアをフランスに割譲(3月)。
  (1859.7民衆デモ→1860.4の住民投票で圧倒的多数でフランス帰属を決めた)『怪帝ナポレオン3世』鹿島茂著p348-357)
  (ただし山岳部はイタリアに残した)
(1861:イタリア建国、1866:ベネチュア割取、1870:ローマ占領、教皇領併合でイタリア統一完成=教皇庁はイタリア王国と1929年まで国交断絶)
(1914〜:第一次大戦時は国境の変化なし・・ただしソスペルでは132名もの死者が忠魂碑に残されている)
1942-43:第二次大戦中、イタリアはニースエリアを占領統治。-1944:ドイツが占領
1947.2:パリ平和条約でニースエリアはフランスに戻り、同時に山岳エリアもフランス領に



●サヴォイア(サヴォワ/サボア)/サルディーニャ王国と塩の道(Route du Sel):紀行:2007年

https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/612/612col-tenda.htm
・下に示したサヴォイア家(サヴォイア伯〜公〜王〜サルディーニャ王)の歴史地図を見て判るように、建国の1000年頃は内陸の領地のみでした。
・1388年、英仏百年戦争参戦の功績でニース地方を獲得し、地中海への接点を持ちますが、その後もジェノヴァ共和国が海岸線を押さえていたため、ニースが唯一の海との交易ルートだったのです。
・この塩の道の交易量は年間5000トン以上にもなり、18世紀末にはニースで1万8千頭、クネオで1万6千頭のラバが使役に用いられていました。また塩の帰りの荷は、ピエモンテの米や大麻、布などでした。
・ナポレオン1世失脚の1814年にジェノヴァを獲得し、トリノからジェノヴァの交易ルートが出来るまで、この「ニース〜トンデ峠〜ピエモンテ/トリノ」の塩の道は、サヴォイアにとって命のルートだったわけです。
・1859年、ナポレオン3世のイタリア独立戦争援助で、サルデーニャ王国からニースとサヴォワ地域がフランスに割譲され、峠を越える塩の交易は寂れたのです。


【13世紀と16世紀の領土】

【1718年の領地】
Route de Sel
【ピエモンテへの塩の道は、ニースからTenda峠経由】


<関連紀行ページ>
 ・Chamberyシャンベリー【サヴォワ王国1232年〜1562年の330年間の首都】
 ・1814年ナポレオン1世失脚、1859年ナポレオン3世が、イタリア独立戦争援助でサルデーニャ王国からサヴォワとニースを獲得
<塩の道の紀行ページ>
 ・ニースから、Route du Sel/Salt Road/塩の道を北上
 ・ソスペル【Le Pont Vieux古橋は、ニース〜ピエモンテ間の塩街道の橋で、税を徴収。ニース地域の支配関係・歴史年表】
 ・タンド峠
 ・Royaロワイヤ渓谷〜サオルジュSaorge〜タンドTende(仏)/テンダTenda(伊)
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<塩の道関連サイト>
 ○http://www.beyond.fr/【Route de Sel詳細な解説】
 ○http://amontcev.free.fr/【La route du sel:ニースからピエモンテへ】


●紀行:2005年

https://www.eu-alps.com/r-site/do-2005/912/912val-gressoney.htm

 このCastel Savoiaサヴォイア城は1900年頃に建造と新しいものです。が、サヴォワ王国は11世紀中ばに「白い手」と呼ばれたウンベルト1世がサヴォイア家(サヴォイア伯)を創って以降、リヨン付近から順次東へと領土を広げて行き、右図のように13世紀にはすでにアオスタの地もその領内に入っています。
 一方先に通過したIssimeイッシムのWalserヴァルザ人は、13世紀頃スイスからこの谷に移住してきたのです。当時サヴォイア王国との間に争いは無かったのでしょうか? さらに彼らヴァルザ人の移住エリアは、東にリビーニョ、トレンティーノ・アルトアディジェ州、フリウーリ・ベネツィアジュリア州と広がっているのです。

 仮説ですが、順次東へと領土を広げ、サルディーニャ王を名乗り(1720年)、ついにはイタリア全体の統一の軸になりイタリア国王(1861年)にまでなったサヴォワ王国は、ヴァルザ人と何らかの連携があり、サヴォワの拡大に前後して、同じようにイタリアの東へとその居住エリアを広げて行ったのではないか?と ・・今後の課題です。【お分かりの方がおられましたら、教えてください】

https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/612/612col-tenda.htm
●サヴォイア(サヴォワ/サボア)/サルディーニャ王国と塩の道(Route du Sel)
・下に示したサヴォイア家(サヴォイア伯〜公〜王〜サルディーニャ王)の歴史地図を見て判るように、建国の1000年頃は内陸の領地のみでした。
・1388年、英仏百年戦争参戦の功績でニース地方を獲得し、地中海への接点を持ちますが、その後もジェノヴァ共和国が海岸線を押さえていたため、ニースが唯一の海との交易ルートだったのです。
・この塩の道の交易量は年間5000トン以上にもなり、18世紀末にはニースで1万8千頭、クネオで1万6千頭のラバが使役に用いられていました。また塩の帰りの荷は、ピエモンテの米や大麻、布などでした。
・ナポレオン1世失脚の1814年にジェノヴァを獲得し、トリノからジェノヴァの交易ルートが出来るまで、この「ニース〜トンデ峠〜ピエモンテ/トリノ」の塩の道は、サヴォイアにとって命のルートだったわけです。
・1859年、ナポレオン3世のイタリア独立戦争援助で、サルデーニャ王国からニースとサヴォワ地域がフランスに割譲され、峠を越える塩の交易は寂れたのです。



●It-Aosta:Gressoneyグレッソネ渓谷の「Castel-Savoiaサヴォイア城」1900年頃に建造:紀行:2005年


IssimeイッシムのWalserヴァルザ人は、13世紀頃スイスからこの谷に移住してきたのです。当時サヴォイア王国との間に争いは?
https://www.eu-alps.com/r-site/do-2005/912/912val-gressoney.htm



●It-Aosta:Bardバール/Donnasドンナ:紀行:2002年:

https://www.eu-alps.com/r-site/do-2005/911/911bard-donnas.htm

●Bardバール/Donnasドンナ 狭い谷間にある、ナポレオン軍が手こずった要塞。
・1563年首都をシャンベリーからトリノに移す。
・1706年サヴォイア公国はオーストリアと連合し、フランスを撃破、その功で王位を与えられ、1713年スペインからシチリア島を割譲され、シチリア王にもなる。
・サヴォイア王は1720年、ロンドン条約によりシチリア島を手放し、代わりにサルデーニャ島を取得しサルデーニャ王となった

・1792年フランス革命軍がサヴォワ地方を併合。
・1815年ナポレオン失脚後の返還




●Traversetteトラヴェルセッテ峠のトンネルについて:I-Site



 この峠の下に、トラヴェルセッテのトンネルがあります。
 いろいろのサイト情報では・・
 峠=海抜2947m、トンネル=海抜2915(または2914m)との記述あります。
  峠頂上の約30m下にトンネルがあるようです。(ただしIGNのMapは峠=2914mなので、トンネルの位置はさらに低い可能性があります。)
 トンネルの長さは、ほぼ100m、1480年開通し、以降、フランス:モン・ドーフィネとイタリア:ポー地域の重要な通商路となったようです。
 20世紀の大戦で、両国はこのトンネルの入り口を閉鎖しました。  現在、このトンネルは両国側に鍵がかけられており、一部ツアーのみが鍵を開けて通過できるようです。
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 峠の真下のトンネルは、ガリビエ(ガリビエール)峠などにもあります。
 峠前後の傾斜は厳しく、登山道路としての整備も難しく、特に冬や雨時期の整備が大変なことからトンネルを作ったのだろうと想定できます。
しかし、1480年という中世の時代に開通ということに興味を持ちます。
どんな時代に、このトンネルはできたのでしょうか?・・・資料整理中ですが・・・

●どうもサヴォア公国の、国内ルート整備のため作られたトンネルのようにようです。
・・・当時、このフランス・アルプス一帯はサヴォア公国の領地だった・・・
・・・フリードリヒ4世がサルッツオ侯爵に、工事遂行の勅許証を授けた・・・
ポー川の源流から、ギル川の源流を結ぶこのルート、かなり昔から・・・ハンニバルの時代でも・・・有力な交易ルートだったようにも思えるのです。
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以下未整理??

●サヴォイアとジェノヴァとサルデーニャ
D:\internet●eu-edit-d-org-キャプチャ\i-site●歴史関連\サヴォワ・サヴォイアsavoie-Fr-It関係\ネット情報\えかきのき・サヴォイアとジェノヴァとサルデーニャ.mht ??

ハプスブルク家の分裂とスイスの喪失(1365年〜1440年)
 第五章 フリードリヒ五世の諸政策(1440年〜1493年)
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http://homepage1.nifty.com/t-kubo/World/Hugues/Valois/valois10.htm

|               +―●フランソワ2世―――――――――+
|               |  [1478-1513]           |
+―●フランソワ1世――――――+  ロングヴィル公         |
|  [1447-1491]        |  配:フランソワーズ・ダランソン |
|  デュノワ・ロングヴィル伯 |+―――――――――――――――――+
|  配:アニェス・ド・サヴォア||
+―カトリーヌ         |+―ルネ
   [1449-1501]        ||  [1508-1515]
   配:ルシ伯ジャン     |+―ジャック
                |   [1511-1512]
                +―●ルイ1世――――――――――――+
                |  [1480-1516]           |
                |  ロングヴィル公         |
                |  配:ジャンヌ・ド・ホッホベルク |
                +―ジャン              |
                   [1492-1533]           |
***********************
フリードリヒ4世
   (チロル公)   
ティロル公フリードリヒ4世(1383(1382)?-1439,6,24)
************************




http://www.pref.nagano.jp/soumu/kokusai/savoie/savoie2.htm
フランス・サヴォア県との高校生交流事業について
サヴォアってどんなところ?
 サヴォア県はフランスの東南部に位置するローヌ・アルプス州にあり、アルプス山脈を挟んでイタリアと国境を接しています。地形は山がちで、森林と湖に恵まれ、温泉やスキー場を生かした観光が盛んであり、長野県とよく似たところが多くある県です。サヴォア県には1992年の冬季オリンピック開催地アルベールビルがあります。
人 口  約37万人
面 積 6,035平方キロメートル(長野県の約半分)
都 市 シャンベリー市(県庁所在地 )、エクスレバン市(98年サッカー・ワールドカップの日本チームキャンプ地)、アルベールビル市など
名 所 ブルジェ湖(フランス最大の天然湖)、レ・トルア・バレー(世界有数のスキーリゾート)
産 業 観光、スキーリゾート、鉱業(製鉄、アルミニウム)
農 業 畜産(乳牛、肉牛、羊、山羊)、果物(リンゴ、梨、桃)
特産物 ワイン、チーズ、ソーセージ
 

***************」
http://www.fcjapan.co.jp/KSL/story/408.html
サヴォア公国について語り合う。
 11世紀にはイタリアのピエモンテ地方に進出したサヴォア家は、山の向こうではサヴィア家と呼ばれ、やがてサルディニア島をも領有してサルディニア王国となり、1861年イタリアの統一王国となってゆく。
神聖ローマ帝国のシュバーベン公領から11世紀にはシュタウフェン家が登場し、13世紀半ばには西部にサヴォア家、エルザスからハプスブルク家が権門として現れた。
******************************
http://www.franceinformation.or.jp/rhone_alpes/annecy/main.html
アヌシー湖から引いたティウー運河沿いの旧市街には旧牢獄パレ・ド・リルをはじめ、12世紀から17世紀に建てられた古い街並みが広がる。16世紀には一時的にサヴォア公国の首都としてジュネーブよりも重要な位置にあった ***************************************************************



●1480年に高度の2 915mに穿たれたTraversetteトンネル
どんな時代?フランスは?イタリアは?

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1300年頃:ミラノ〜リヨンはジェノヴァの貿易圏・貿易路で・・・両都市周辺は絹の生産地だった。織物、金属、塩、魚、穀物、ワイン、贅沢品など種類も量も豊富。(EU大陸歴史-p81)
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1388年、プロヴァンス東部がサヴォワ家の統治下になり、ニースを中心とした新しい地方が創設
1388年:サヴォイ公家はニースの領主となる。●1600年頃:フランス・アルプス一帯はサヴォア公国の領地(1860年にニースをフランスに割譲・・・ハプスブルク家のオーストリアに対抗して、イタリアをサヴォイ公家(当時、既にサルディニア王家となっていた)の下に統一するには、フランスの協力が不可欠だったため)
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15世紀:1400年代:になると、サヴォワ公は、●ニースとトリノを結ぶ山間道路を建設し、ニースを商業都市として発展させることに力を注ぎます。この道路はサヴォワ公国内陸部に塩を運ぶために必要なものでもありました。
1402年ルネサンス前期
1429:ジャンヌダルク出現
1438:ハプスブルク家(1278-ルドルフ1世)のアルブレヒト2世が、神聖ローマ皇帝になり、以降歴代皇帝位を独占が決まる(-1806年)。
1453年:東ローマ帝国が滅びる。(=メフメト2世率いるオスマン・トルコ軍が、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。古代ローマ帝国からの栄光を引き継いでいたビザンティン帝国が地上から姿を消した。)
1455-85:イギリスバラ戦争
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○印刷術の発明 ・・・
1453?頃:グーテンベルクが印刷機を開発
印刷機=プレス(Press=葡萄の圧搾機のこと=印刷機はそれをそのまま流用したもの) 西ヨーロッパに書物が急速に拡大することになった。1480年までに、52の都市に印刷業者が成立していた。その大部分はイタリアにあり、北イタリアにその全体の3割が集中していた。
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○冒険の時代(大航海時代)・・・・コロンブスのアメリカを発見。ヴァスコダガマのインド航路発見。南米に至る。マゼランの世界就航。
1460年:ポルトガルのエンリケ航海王子が亡くなった。その頃、アフリカ西岸を南下して、貿易を行っていた。
1479年スペイン王国成立
1481年:プロヴァンス伯領自体がフランス王国に併合されることになった。それを嫌がったレ・ボーの人々は反乱を起こした。しかし反乱はフランス王ルイ11世によって鎮圧された。
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1450年、フランチェスコ・スフォルツァ1世がミラノの権力を掌握し、ミラノ公爵に。
1466年、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァがミラノ公爵位を相続。
1476年、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァが共和主義者によって暗殺された。当時 7 歳のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァがミラノ公爵位を相続した。叔父のルドヴィコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)が摂政となった。
1480年、イル・モーロが甥の公爵から実権を簒奪した。
1494年、イル・モーロの支持を得たフランス王シャルル 8 世がイタリアに侵入し、ナポリを攻略した。王の支援の許に、イル・モーロがミラノ公爵位を奪った。
1495年、イル・モーロがフランスと敵対し、法王側に寝返った。
1499年、フランス王ルイ12世がミラノを攻略。
1500年、ミラノを奪還しようとしたイル・モーロが敗れ、フランス軍に捕えられた。
1508年、フランスに捕えられていたイル・モーロが死去。
1512年、イル・モーロの息子マッシミリアノ・スフォルツァが、法王ジュリオ2世の支援を得て、ミラノ公国を奪還した。しかし、直ちにフランスがミラノを攻略した。
1515年、マッシミリアノの弟フランチェスコ・スフォルツァ2世が、皇帝カール5世の支援の許にミラノを奪還した。
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1488年:バーソロミュー・ディアスが、アフリカ南端の喜望峰を発見。
1492年:コロンブスが大西洋を横断し、アメリカを発見した。
1494年:フランス王シャルル8世は、ナポリ王国征服を目指してイタリアに侵入した。その軍の通過点に当たるフィレンツェにおいて、ピエロ・デ・メディチは屈辱的な態度でシャルル8世に屈服。それがフィレンツェ市民の反発を招き、メディチ家はフィレンツェから追放された。
1495〜1498年:レオナルド・ダ・ヴィンチがイタリアのミラノで「最後の晩餐」を完成。
1497年〜1498年:ヴァスコ・ダ・ガマ、喜望峰を越えてインドに到達
1498年:ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ艦隊がインドのカリカットに到達
1499:南米に至る。
1502年:ジェロニモス修道院(リスボン、ポルトガル)、ポルトガル王マヌエル1世の命により建設が始まった。その建設資金は、ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った香料の売却益から出た。
1510年:ポルトガルがインドのゴア、翌年にはマラッカを占領。
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○宗教改革
1517:ルター(1483-1546)が95カ条の掲示=宗教改革
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宗教改革
免罪符発行・・・1480年頃ヨーロッパの町々で「笛吹き男」の噂に脅えていた。笛吹き男は1284年ドイツのハーメルンで起こった130人の子供を連れ去ったとされる事件であるが、当時の精神状態は森や川に魔物精霊が渦巻いており、至るところに魔女や仙女が居ると信じられていた。 それを避けるために聖人聖女の遺物が必要とされ、それを求める為家元のローマバチカンへ多くの人が交通した。その巡礼者や交易商があのハーメルン事件の1284年を起点とする暦を使い、「笛吹き男」の再来を防いでいると語ったという噂がヨーロッパ中に広まった。皇教イノケンティウス8世はローマカトリック教会を挙げて「笛吹き男」と戦うべく決心した。
「異端審問至高庁」は教皇の命を受け異端審問官ハインリッヒクレーマー(1430〜1505)とヤコブシュプレンガー(1436〜1495)を中心にして、ヨーロッパ中のあらゆる文献と話を集め魔師に対する対策を出版した。●たまたまドイツのマインツ市に住むグーテンベルグ(1400〜1468)が鉛にスズ・アンチモン・ビスマスを入れた合金による鋳造活字による印刷技術を発明しており出版物の配布は容易になっていた。この本は「魔師への鉄槌」と名づけられていたが1489年ヨーロッパに配布され、魔師・魔女の見分け方から殺し方まで丁寧に示されていた。
「魔師」との戦いを行うローマ教会は1506年から戦いの本営としてローマのサンピエトロ大聖堂の大改修を行うことにした。問題は金でありここで免罪符を発行し、これさえ買えば罪を犯しても天国へ行けると触れ回り、販売は教皇庁の財政を司るフッガー家が協力した。
ルターの反対
東ドイツのヴィッテンベルグの教授ルタ―(1483〜1546)は必ずしも理性から免罪符の不合理性を指摘したのではなく、悪魔を除くにはそれ相応な霊力が必要でその言葉を紙に書いただけでは効力が無いと考えていたからである。 ともかく1517年10月31日公開討論会を呼びかけヴィッテンベルグ城教会の扉に免罪符を攻撃する「95ヶ条の論題」を発表した。この論議は印刷され、前年出来たばかりのタッシ―家の郵便(イタリ―のタッシ家が政府の郵便を無料で運ぶ代わりに神聖ローマ帝国内の郵便事業を独占する特許を1516年得た)によりドイツ・スイス全土に広まった。
ローマカトリック教会はドミニコ会を中心に猛然反撃した。それに政治問題も絡み厄介な事になった。即ち1519年スペイン王がハプスブルク出身者として神聖ローマ皇帝を兼ねる事になっていたので、挟まれるフランスのヴァロワ家は其れと対立し、イツ国内では反皇帝派領主,反教皇派市民,反商業派農民はそれぞれの思惑からルタ―を支持し、「福音派」または「抗議派プロテスタント」として混乱が続いた。ルターは1518・1519・1520年の三年間多くの本を出版したが中でも1520年の「キリスト教徒の自由」は救済と儀式と教義を独占するローマカトリック教会を否定する事になってしまった。このため1521年ルターはローマカトリック教会から破門された。その後反皇帝派ザクセン侯の庇護の下に一般民衆でも読めるようラテン語でなく、ドイツ語で聖書を作り1522年に出版した。
スイスのツヴィングリー(1484〜1531)はルターの決起を知ると1522年スイス友愛会を作りチューリッヒ・ベルン・バーゼルの諸都市をカトリックと縁を切り新教の都市にした。又トーマスミュンツアー(1489〜1525)は千年王国説と階級革命論を結び付け、教会ではなく精霊による「再洗礼」を訴える結社をドイツ農民の間に作った。トーマスミュンツアーはルターの決起に応じドイツ農民戦争を起こし(1524〜1525)ツヴィングリーも又これを支持した。しかしルターはそれに反対で諸侯領主と共に弾圧する側に立った。オランダのエラスムスはルターを「信仰より善行によって救済の恩寵を受けることが出来る」と批判した所、ルターは「人間は自由でなく信仰を問われる神の奴隷である」と反論した。結局ルターのカトリックに対する改革は中途半端のものであった。
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1519-22:マゼランの世界就航
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15世紀:1400年代:になると、サヴォワ公は、●ニースとトリノを結ぶ山間道路を建設し、ニースを商業都市として発展させることに力を注ぎます。この道路はサヴォワ公国 内陸部に塩を運ぶために必要なものでもありました。



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1796.4.28:ピエモンテ・サルデーニャ王がボナパルトに休戦を申し入れ、Cherascoケラスコで調印。サヴォワとニースを割譲し300万リラの戦争賠償金を払う。『フランス革命年代記:J.ゴデシュ:瓜生洋一他訳、日本評論社1987.7、p163』

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http://www.ac-dijon.fr/etab/cotedor/castel/vieassoc/actualite/bar/pages/historique.htm
1921ダム完成

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●●サヴォイ・・・紋章 Savoy Crest Savoie Crest http://www.associationsavoie.ca/blason-e.html

http://www.railsavoie.org/histoire/annalber/【RAIL SAVOIE】




★サヴォワエリアのいくつかのこと:
 ○http://alain.cerri.free.fr/index.html【GLIERES, SAVOIE...:by Alain Cerri】 ●http://alain.cerri.free.fr/index18.html【Photos et histoire de la ville d'Annecy】アヌシーの歴史

History of Savoy - Histoire de la Savoie http://alain.cerri.free.fr/index7.html


lac mont cenis historyのパラメータで調べよ・・・
●ナポレオン/レジスタンス/// −−−−−−−−−−−



●「Histoire Savoie carte」でGoogleイメージ
http://www.chateau-de-menthon.com/histoire_de_savoie.htm【歴史地図】

http://encyclopedie.pieds-noirs.info/index.php/Rattachement_-_SAVOIE

HISTORY Of An ALPINE STATE
Seigniories in the County of Savoy
<1032年>
It is about the year millet that truly the history begins from Savoy. In 1032, a lord of Maurienne, Humbert to the White Hands, is made Ccmte of Savoy attached to the Saint Worsens Germanic. It is the origin of the House of Savoy.
それは本当に歴史がSavoyから始める年のあわに関するものです。 1032年に、モーリエンヌの支配者(「白い手」と呼ばれたウンベルト1世(980-1047/1048) は、神聖ローマ皇帝からSavoyの爵位を得た。 それはSavoy家の起源です。
10世紀に、アオスタはKingdom of Burgundyブルゴーニュ王の一部になりました。 1032年にブルグンドのルドルフ家が断絶した時、その地域はSavoy家のウンベルトI世(白い手)の領地になり、神聖ローマ帝国に組み入れられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Humbert_I_of_Savoy

<14世紀>
The feudal hierarchy is set up of XIe at the XIV E century. The most powerful lords assert like suzerains.Les others, become their vassal, assistance and council owe them.
封建的な階層構造はXIV E世紀にXIeについてセットアップされます。 最も強力な支配者はsuzerains.Lesのように他のものについて断言して、彼らの家臣になってください、そして、支援と協議会は彼らを負っています。

<13世紀>
Thus, of bottom in top of the scale, one finds the knights, the barons, the Viscounts and the bishop of Geneva. On the top impose themselves, to the XIII E century, the counts of Geneva, the barons of Faucigny and the counts of Savoy.
したがって、スケールの先端の下部では、人がナイト、男爵、Viscounts、およびジュネーブの司教を見つけます。 先端に、自分たちを課してください、XIII E世紀、ジュネーブのカウント、Faucignyの男爵、およびSavoyのカウントに。

<1232年>
In 1232, Chambery becomes the Capital of Savoy.
1232年に、●シャンベリはSavoyの首都になります。

<1355-1439-1451年>
By various means, the counts of Savoy eliminate their rivals. They acquire Faucigny in 1355, the county of Geneva in 1401. With Amedee VIII which reigned of 1391 to 1439 and died in 1451, Savoy, set up in duchy by the emperor in 1416, knew his apogee.
あの手この手で、Savoyのカウントは彼らのライバルを排除します。 それらは1401年に1355年のFaucigny、ジュネーブのカウンティーを買収します。 1391年から1439を支配して、1451年に死んだAmedee VIIIと共に1416年に公園で皇帝によってセットアップされたSavoyは彼の遠地点を知っていました。

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Humbert and its successors based their power on the control of the collars of the Western Alps, Cenis mount, Grand and Small Holy Bernard and of their access. The maitrise of the alpine roads was worth with its holder of profitable tolls and allowed him to play a sometimes decisive role in the political play.
アンベールとその後継者は彼らのパワーを西アルプスと、Cenisマウントと、GrandとSmall Holyバーナードと彼らのアクセスのカラーのコントロールに基礎づけました。 maitriseする、時々決定的な役割を果たすために有益な料金の保持者にとって価値があって、彼に許容された高山の道路では、政治犯でプレーしてください。

<1416-1792>
Duchy of Savoy to monarchy sarde (1416-1792)
君主制sardeへのSavoyの公園(1416-1792)

<1416-1440>
 アヌシーは、サヴォワ家のアメーデオAmedeo 8世(1383-1451:在位1416-1440年)がジュネーブ伯から買い取った町。 アヌシーは1434-1444年、サヴォイア公国の首都であった。
(*●?・・1232-1562年はシャンベリがSavoyの首都・・その間の10年のみ?)

<1476>
After the reign of Amedee VIII, the Savoyard state knew a long eclipse due to some extent to the weakness of its successors, but also to the increasing ambition of its neighbors. The Swiss ones devastated and held to ransom the country of Savoyard Vaud (1476). French monarchy directed its ambitions towards Italy and the "Gatekeeper of the Alps" had the appearance of an obstacle.
アメデオ8世の治世にある程度当然の長い食を後継者の弱点に知っていましたが、増加する隣人の野心のことにも知っていた、Savoyardが、述べる後。 スイスのものは、荒らして、Savoyard Vaudの国を賠償するために成立しました(1476)。 フランスの君主制はイタリアに野心を向けました、そして、「アルプスの門番」には、障害の外観がありました。

<1526-1536>
In 1526, after years of fight, the duke loses Geneva. That Ci, rejoined with Calvin, joined the Swiss Confederation. In 1536, under pretext of carry help to the town of Geneva threatened by the duke Charles of Savoy, Bernois invaded the country of Vaud and Chablais. The same year, Francois 1st seizes the first pretext to invade Savoy and Piedmont.
n1526、何年もの戦いの後に、公爵はジュネーブを失います。 カルヴァンと共に再び加わられるそのCiはスイス連邦を接合しました。 1536年に、ジュネーブの町へのキャリーヘルプという口実で、Savoyのチャールズは公爵で脅かしていて、BernoisはVaudとChablaisの国に侵入しました。 同じ年に、フランソア1番目はSavoyとPiedmontに侵入する最初の口実を捕らえます。

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This first occupation marks the end of the medieval duchy.
この最初の職業は中世の公園の端を示します。

<1547-1558-1559>
It is Emmanuel-Philibert, known as Iron Tete, which will restore the Savoyard duchy. With the service of the emperor Charles Quint, his great victories of Muhlberg (1547) and Saint Quentin (1558) enabled him to assert the paternal heritage at the time of the treaty of Cateau-Cambresis in 1559 between France and Spain.

<1547-1558>
Savoyard公園を修復するのは、Ironテーテとして知られているエマニュエル-Philibertです。 チャールズQuint皇帝のサービスで、彼のMuhlberg(1547)とセイント・クェンティン(1558)の大勝利は、彼が1559年にCateau-Cambresisの条約時点でフランスとスペインの間で父方の遺産について断言するのを可能にしました。

<16世紀後半>
ルソーが来た頃は、16世紀後半の宗教改革がヨーロッパ各地に広がり、ジュネーブなどスイスのカトリック系の領主・聖職者たちがこの街に避難・集まりだした時代である。 <1562-1602>
The Capital is transferred in 1562 in Turin. The weight of Piedmont compared to Savoy accroit from generation to generation. With the Swiss Confederation and France, Savoy deals with too strong part. It loses several provinces in favour of these powerful neighbors. An ultimate attempt counters Geneva in the night from the 11 to September 12 1602 shows cooking failure of the "Escalade ".

1562年に●トリノへ首都を移します。 Piedmontの重さは代々、Savoy accroitと比較されました。 スイス連邦とフランスと共に、Savoyは強過ぎる部分に対処します。 それはこれらの強力な隣人を支持していくつかの州を失います。 究極の試みは夜、11?「はしご登り」の9月の12 1602ショー料理失敗までジュネーブを打ち返します。

<1580-1632>
Charles-Emmanuel (1580-1632) and his successors then turned their ambitions on Italy parcelled out by pushing their advantages until Tessin and the Lake Maggiore. Of a proverbial duplicity, the dukes of Savoy could keep the free hands in Italy, while avoiding facing France, Spain and Austria.
チャールズ-エマニュエル(1580-1632)とそして彼の後継者は彼らの野心をマッジョーレテシーンと湖までそれらの利点を押すことによって分配されたイタリアに変えました。 ことわざの二枚舌では、フランス、スペイン、およびオーストリアに面しているのを避けている間、Savoyの公爵はイタリアに自由行動を保つかもしれません。

<1600-1690-1696-1703-1713>
Savoy was occupied on several occasions, in 1600 pennies the reign of Henri IVet in 1628 with Richelieu. It is the duke Victor-Amedee II who goes entrainer the sharpest tension by mobilizing a coalition anti-Frenchwoman. Savoy and part of Piedmont were occupied,de 1690 to 1696 and of 1703 to 1713, by the troops of Louis XIV. The treaty of Utrecht (1713) returned in Victo-Amedee its increased grounds of Sicily which will be exchanged against the small kingdom of Sardinia.
チリメンキャベツは1628のアンリIVetの治世に時折、1600ペニーでリシュールに占領されました。 公爵は行くビクタ-Amedee IIです。それ、連合反フランス人を動員する最も鋭いのが張力をかけるエントレイナー。 Piedmontのチリメンキャベツと一部が、占領されたdeの1690年から1696であり、1703年から1713年のそうです、ルイスXIVの軍で。 ユトレヒト(1713)の条約はVicto-Amedeeでサルジニアの小さい王国に対して交換されるシチリアの増加する構内を返しました。

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From the moment when Victor-Amedee became king, the whole of its States was indicated like "kingdom of Sardinia", Savoy and Piedmont constituting the "Firm States de Terre".
ビクタ-Amedeeが王になった瞬間から、Statesの全体が「堅いStates de Terre」を構成する「サルジニアの王国」、Savoy、およびPiedmontのように示されました。

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From one Annexation to another (1792-1860)
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1Annexationから別のAnnexationまで(1792-1860)

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In September 1792, without combat, the French revolutionary troops occupy Savoy. A Parliament of Allobroges, elected by the communes of Savoy, voted the annexation in France. The unanimity of the beginning is disturbed by the introduction of the conscription and the persecution of the priests. The peasants revolt in April 1793 in Haut-Faucigny and May in the valley of Thones, the small Vendee. Against revolutionists seize Annecy from the 21 to August 23. Risings are repressed hard, the heroin of resistance thonaise, Marguerite Frichelet, is shot on Paquier of Annecy.
1792年9月に、戦闘がなければ、フランス人の革命の軍はSavoyを占領します。 Savoyの親交によって選出されたAllobrogesの議会はフランスで別館について投票しました。 始めの満場一致は徴兵の導入と聖職者の迫害で擾乱されます。 農民はHaut-Faucignyと5月に1793年4月にThones、小さいVendeeの谷の中で反乱を起こします。 革命派に対して、21からアヌシーを8月23日まで差押えてください。 新進は一生懸命鎮圧されて、抵抗のヘロインはthonaiseされて、Marguerite FricheletはアヌシーのPaquierにおけるショットです。

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In the Empire of Napoleon, the Savoyard ones held their modest role and provided their quota of conscripts. However, the wars and economic and military deterioration since 1812, reinforce the wait-and-see policy of notable and the desobeissance of the poor conscripts unable to pay a substitute.
ナポレオンのEmpireに、Savoyardものは、それらの穏やかな役割を保って、それらの徴集兵の割当てを供給しました。 しかしながら、1812、著名人の静観政策とaを支払うことができない貧しい徴集兵のdesobeissanceが置換する補強以来の戦争と経済の、そして、軍事の劣化。

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The fall of Napoleon brought back the dynasty sarde in its hereditary States. From 1849, the new king Victor-Emmanuel II and his Cavour minister aim at an Italian reunification and the expulsion of the Austrians, Masters of Milan and Venice. Cavour secures alliance of Napoleon III. The victories franco-sardes of Magenta and Solferino allowed the ousting of the Austrians of Milan. The Italian states, protected by Austria, are effondrent and their population rejoin the house of Savoy. Victor-Emmanuel is crowned on May 17, 1861 king d' Italie.
ナポレオンの陥落は世襲ののStatesで王朝sardeを返しました。 1849年から、新しいIIビクタ-エマニュエル王と彼のカヴールの大臣はイタリアの再統一とオーストリア人の追放、ミラノとベニスのMastersを目的とします。 カヴールはナポレオン三世の同盟を保証します。 MagentaとSolferinoのfranco-sardesがミラノのオーストリア人を追い出すことを許した勝利。 オーストリアによって保護されたイタリアの州はeffondrentです、そして、それらの人口はSavoyの家に再び加わります。 'ビクタ-エマニュエルは1861年5月17日d'Italie王の上で戴冠します。

<1860>
In front of such events, the emperor Napoleon III monnaya at best his intervention. He was made yield by the treaty of Turin of March 24, 1860 Nice and Savoy. The vote for all ratifies with one crushing majority the decision taken in Turin.
せいぜいそのような出来事、ナポレオン三世monnaya皇帝での彼の介入。 彼は1860年3月24日のニースとSavoyのトリノの条約による人工の利回りでした。 すべてへの票は1つの壊滅的な大部分と共にトリノで取られた決定を批准します。





http://www.amitm.com/thecon/lesson6.htmlItalian Unificationイタリア統一

http://www.answers.com/topic/risorgimentoイタリア(1815-70)/ドイツ(1815-71)統一

http://www.nice.fr/mairie_nice_8596.html・・ニース地域の歴史地図・・●有効  1310-1388-1524-1614-1720-1818-1947

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http://alain.cerri.free.fr/index.html・・Alain Cerri GLIERES, SAVOIE...・・フランスレジスタンスの歴史+サヴォワ+・・

http://alain.cerri.free.fr/index7.html・・History of Savoy - Histoire de la Savoie・・●有効
http://alain.cerri.free.fr/index18.html・・Histoire d'Annecy : grandes dates −−−
http://savoie-maurienne.latitude-gallimard.com/savoie-maurienne-article0392.html・・savoie-maurienne各地の砦説明

http://www.jndstravelog.com/Europe/Savoie2006/Savoie_01.htm・・各地観光写真





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