ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る 峠indexへ戻る

 [峠マルチ索引]   [1位-  10-  20-  30-  40-  50-  60-  70-  80-  90位-  1000m未満  歴史/登山峠  トンネル]    [街道]  [大分水嶺]  [山岳鉄道]  [世界遺産]  [国立公園]  [アルプスと歴史]  [解説]  
[LINK/FAQ/情報提供]/ [フランス]/

    ●最新状況<<< 2015.1.16

Savoieサヴォワ/サヴォイア王家歴史:時系列・・作成中
  ⇒歴史記事単位


0843-0870-europe
【843年のVerdun条約、870年のMersen条約】

879年から933年までの、上ブルグントおよび下ブルグント王国
【サヴォワ家発祥以前(933年まで)の、上ブルグント(緑)および下ブルグント王国(肌色)の領土】

<サヴォワ家発祥以前の支配者>


・411年にゲルマン民族の一派ブルグント族がこの地に侵入し「ブルグント王国」を建国。

・534年にブルグント王国は「フランク王国」に滅ぼされる。(王国内で独立性のある地域として、国王がおかれることがあった)

・フランク王国・カロリング朝時代のカール大帝(在位768年-814年)は、広大な統一王国を築いた。

・817年、ルートヴィヒ(ルイ)1世王は、3人の息子たちに王国を分割相続の法を作り、死の840年、フランク王国は分裂。ロートリンゲンおよびイタリア北部は、長男ロタール1世領の「ロタールLothair王国(中部フランクFrancie mediane王国)」となる。

・870年、ロタール王国の血統断絶後のメルセン条約で、ロートリンゲンは東西フランク王国が分割、イタリア北部はロタール1世の子、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)領のイタリア王国となる。

・875年、ルートヴィヒ2世の血統断絶後、「西フランク王国」の王シャルル2世のものとなる。877年〜ルイ2世。879年〜ルイLouis3世。882年〜カールマンCarlomanII。884年〜カールCharles3世。

・9世紀末のカロリング朝の混乱によって、ブルグントにはユラ山脈以北のユーラブルグント王国とユラ山脈以南のキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)が建国された。

・888年〜「ブルゴーニュ王(西フランクの一部)」:オドOdo of France。898年〜シャルル3世。915年〜ルドルフRodolfo1。

・879年〜933年までの、上ブルグントおよび下ブルグント王国の領土を右の地図に示す。(10世紀に、アオスタはKingdom of Burgundyブルゴーニュ王の一部に)

・912年〜ルドルフRudolfII。933年〜「上ブルグント王国Upper Burgundy(北)と下ブルグント王国Lower Burgundy(南)」に分離。

・937〜コンラッドConrad I of Burgundy。

・993〜ルドルフ3世RudolphIII。1006年:ルドルフ3世RudolphIIIはドイツのヘンリーHenry IIと誓約。

・1032年〜アルル王国(=ブルゴーニュ第二王国)ルドルフ3世(Rudolph III of Burgundy)が後継者なく没してブルグント王家が断絶すると、ブルグント王位は「神聖ローマ帝国」の皇帝コンラートConrad2世(ルドルフ3世の甥)が継承した。


<980-1048年>

Umberto I Biancamano
【Umberto I Biancamano
ウンベルト1世(980-1048)】

Umberto or Humbertウンベルト1世(980-1048:在位1003-1048)
・彼はは、サヴォワ地方モーリエンヌ(英語名)(現:フランス・サヴォワ県サン=ジャン=ド=モーリエンヌ周辺)の貴族アマデウス(おそらくはモーリエンヌの伯爵/ケルト-ローマの子孫)の子として生まれた。兄弟にはベレー(現:アン県)の司教となったオッドーネがいる。

・ウンベルトは、サクソン人やブルグント人、プロヴァンス人などの血を引いていたと言われている。ブルグント王国(アルル王国)の王ルドルフ3世 (Rudolph III of Burgundy) との近い関係から、ウンベルトの家系はブルグント人と考えられ、ヴィエンヌ伯家の血を引くか、あるいはブルグント貴族の家系(たとえばアルボン伯家と同族)ではないかといった推測がされている。

・ウンベルト1世は「寛大・清廉な人」を指す尊称であろう「ビアンカマーノ=白い手」と呼ばれた。サヴォイア家(サヴォイア伯国またはサヴォワ伯国(イタリア語:Contea di Savoia, フランス語:Comte de Savoie)を創立。
・ウンベルトの名が初めて登場するのは1000年1月26日付の文書で、以後断片的に史料に登場する。

1003年のベレー司教オッドーネによる文書で、ウンベルトの家族が「伯爵」の家族と呼ばれることがわかる。1003年にウンベルトはブルグント王ルドルフ3世に代わりSermorensの一部であるヴィエンヌ(現:イゼール県)で判決を下している。

・ウンベルトははじめベレーBelley/Bugey付近とSermorens伯爵領の中に領地を持っていた。のちにニヨンNyon(1018年) アオスタAosta(1024年)やヴァレー(Wallis伯の娘Ansiliaと結婚)、ヴィエンヌViennois(1025年)に領土を得た。ウンベルトの子孫は「サヴォイア伯」を世襲して「サヴォイア家」と呼ばれるが、どのようにその称号を得るようになったのかははっきりしない。

・ブルゴーニュ大公ルドルフ3世の妻アーメンガードErmengardeの信頼を得る。ルドルフの後継者として頭角を現し、伯爵の爵位を獲得。


サヴォイア伯

1032年、ブルグント王ルドルフ3世(Rudolph III of Burgundy)が後継者なく没し王家が断絶すると、ブルグント王位はルドルフ3世の甥にあたる神聖ローマ皇帝コンラートConrad/Konrad 2世が継承した。
 ウンベルトはコンラート2世に忠誠を誓い、彼がブロワ伯オド2世 (Odo II, Count of Blois) やミラノ大司教アリベルト (Aribert (archbishop of Milan)) と戦うと、ウンベルトはコンラート2世を助けて戦争に参加し勝利した。
 コンラート2世はその功績に報い、ウンベルト1世をサヴォイア伯として承認するとともに、モーリエンヌMaurienne 、シャブレーChablais 、タレンテーズTarentaise Valley を新たに与えた。

Aiguebelle
【Aiguebelleとモーリエンヌの谷】
 ウンベルトは、シャルボニエール城Charbonnieresを中心に構築されたAiguebelleに居住しモーリエンヌの谷を護った。

・ウンベルトは、1047年か48年に、モーリエンヌにある町エルミヨンHermillonで死去し、サン=ジャン=ド=モーリエンヌSaint-Jean-de-Maurienneのカテドラルに埋葬された。所領は長男のアメデーオ1世が継承した。


blason-savoieサヴォワ家・紋章 【blason-savoie
サヴォワ家・紋章】
・関連URL
Histoire de la Savoie au Moyen Age【中世のサヴォイの歴史】
wiki/Humbert_I_of_Savoy



<1048-1299年>サヴォイア伯、アオスタ伯、トリノ伯、モーリエンヌ伯


Amedeo I di Savoia detto Codaアメデーオ1世(在位:1048-1051or1056年)
Oddone di Savoia オッドーネ(在位:1051or1056-1060年)
 ・スーザ女伯アデライデAdelaide of Susa(トリノ伯オルデリーコ=マンフレーディ2世の娘)と結婚し、サヴォイア家は大きく領土を拡大した。サヴォイア家は現在のイタリア・フランス国境に領土を持っていたが、オッドーネは積極的にイタリアでの領土拡大を進め、ピエモンテ地方の大部分を獲得した。

Pietro I ピエトロ1世(在位:1060-1078年)
◆Amedeo II アメデーオ2世(1078-1080年)
Umberto II ウンベルト2世(在位:1080-1103年)
Amedeo III アメデーオ3世(在位:1103-1148年)
  1147年、第2回十字軍が開始されるとフランス王太子ルイ(のちのルイ7世)とその妻アリエノール・ダキテーヌの側近として戦争に参加。隊は南イタリア各地〜ブリンディシ〜コンスタンティノープル〜アナトリア半島(ルーム・セルジューク朝軍との戦いで敗走)〜アンティオキア公国へ逃げ延びたが、キプロス島で流行病を患いニコシア城で病没した。

Umberto III ウンベルト3世(在位:1148-1189年)

Chateau de Chillonシヨン城  ●現スイスのシヨンChillon城は、1150年頃からサヴォワ(サボア/サヴォイア)伯爵家の所有になる。
 シヨンChillon城は9世紀頃にシヨンの関所が作られた。以降、城を拡大したSionシオン大司教の所有。〜1150年頃からサヴォワ(サボア/サヴォイア)伯爵家の所有になる。13世紀にかけて改修を繰り返し、現在の城の基盤が作られた。〜14世紀にはサヴォワ公の夏の居城として繁栄。1532-36年には宗教改革推進派のボニバールが捕らえられ、幽閉されるが、1536年、プロテスタント教徒の攻略で城はベルン人のものとなり、ボニバールも開放された。
  紀行:r-site:2005.9.8:Rochers-de-Naye
−−−
古代ローマの道
【古代ローマの道とグランサンベルナール峠、シヨン城】

chateaudoex-mosses-aigle-map 【Chillonシヨン城とAigleエーグル城の位置。エーグルを確保すれば、シヨンでの税金は払わずに交易できる】
 レマン湖の東付近は、紀元前から通行の関門になっていた場所。カエサル(シーザー)の時代、古代ローマの時代にもグラン・サンベルナルド峠などのアルプス越えの、物資の交流のメインルートだった。


 古代ローマ時代、グラン・サンベルナルド峠からレマン湖岸を抜けVeveyヴヴェ・ベルンに抜ける道が主要道路とすると、エーグルAigleからモス峠Col des Mosses(1445m)を経てシャトー・デーChateau-d'Oex、ベルンに抜ける道はその裏道。この裏道が乗り物も使えるような道路に整備されたのが1871年で極めて遅いが、この裏道を使ってイタリア・ローマとベルン間を交易すれば、シヨン城でのサヴォワの関税は不要になる。スイス・ベルン人としてもエーグルを確保したいはず。



 ●現スイスのエーグル城Chateau d’Aigleは、12世紀末、サヴォワ伯がヴァリスに侵略し、エーグル領主の地を占有。
 エーグルAigle城はローザンヌの司教の地だった。エーグル領主の城の記録は1179年に残っている。〜 12世紀末、サヴォワ伯がヴァリスに侵略し、エーグル領主の地を占有。 〜1232年、サヴォワのThomas伯爵、エーグル・シヨン家の基本的規則を定める。
・14世紀、Compey家がその規則に基づき管理した。〜・1464年、ベルン人は、エーグルの町と城を奪還しようと試みたが、成功しなかった。 1482-85年、ベルン人は再び奪還の戦いで勝った。
  紀行:r-site:2005.9.10:Col-Mosses
エーグル城Chateau d’Aigle


Tommaso I トンマーゾ1世(在位:1189-1233年)


Chateau des Ducs de Savoieサヴォイア家の城
【Chateau des Ducs de Savoieサヴォイア家の城】
1232年、シャンベリはSavoyの首都になる。(〜1562年)
●シャンベリー:1232年〜1562年:サヴォワ王国の330年間の首都
 シャンベリーは1232年〜1562年の330年間にわたって、サヴォワ王国の首都でした。王国の歴史地図でわかるように、その領土は北はヌシャテル湖南、西はソーヌ川、南はニース、東はトリノのさらに東にも及んでいました。
  紀行:t-site:2007.6.7


Amedeo IVアメデーオ4世(在位:1233-1253年)
Bonifacioボニファチオ(在位:1253-1263年)
◆Pietro IIピエトロ2世(在位:1263-1268年)
◆Filippo I (si estingue la Branca Comitale)フィリッポ1世(在位:1268-1285年)
◆Amedeo V (inizia la Branca Ducale)アメデーオ5世(在位:1285-1323年) <↓次世紀に継続>


−−−
●アオスタ:Val-Gressoneyグレッソネイ渓谷のIssimeイッシムのWalserヴァルザ人は、13世紀頃スイスからこの谷に移住してきたのです。当時サヴォイア王国との間に争いは無かったのでしょうか? さらに彼らヴァルザ人の移住エリアは、東にリビーニョ、トレンティーノ・アルトアディジェ州、フリウーリ・ベネツィアジュリア州と広がっているのです。
サヴォワの拡大は、ヴァルザ人の移動にも影響し、前後して同じようにイタリアの東へとその居住エリアを広げて行った?・・仮説
  gressoneyrr-site:2005.9.12:val-gressoney記事
−−−


【13世紀末の領土】


<1300-1399年>


◆Amedeo V (inizia la Branca Ducale)アメデーオ5世(在位:1285-1323年)

○【Yvoireイヴォワール城】v-site:2009.7.9旅写真
・1300年頃、Yvoireイヴォワールの城は、Amadeus V(在位1285-1323)が建造。


◆Edoardoエドアルド(在位:1323-1329年)
◆Aimoneアイモーネ(在位:1329-1343年)
◆Amedeo VIアメデーオ6世(在位:1343-1383年)
◆Amedeo VIIアメデーオ7世(在位:1383-1391年)

−−−−
●サヴォイア(サヴォワ/サボア)/サルディーニャ王国と塩の道(Route du Sel)
・下に示したサヴォイア家(サヴォイア伯〜公〜王〜サルディーニャ王)の歴史地図を見て判るように、建国の1000年頃は内陸の領地のみでした。
1388年、英仏百年戦争参戦の功績でニース地方を獲得し、地中海への接点を持ちますが、その後もジェノヴァ共和国が海岸線を押さえていたため、ニースが唯一の海との交易ルートだったのです。
・この塩の道の交易量は年間5000トン以上にもなり、18世紀末にはニースで1万8千頭、クネオで1万6千頭のラバが使役に用いられていました。また塩の帰りの荷は、ピエモンテの米や大麻、布などでした。
  https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/612/612col-tenda.htm

【13世紀と16世紀の領土】
Route de Sel
【ピエモンテへの塩の道は、ニースからTenda峠経由】
−−−−−
◆Amedeo VIII diventa Duca di Savoiaアメデーオ8世(在位:1391-1416年)  <↓次世紀に継続>




<1400-1499年>


◆Amedeo VIII diventa Duca di Savoiaアメデーオ8世(在位:1391-1416年)


サヴォイア公

1416年、神聖ローマ皇帝ジギスムントから公位を授かり公国が成立
サヴォイア公国:歴代君主
◆1.Amadeus VIIIアメデーオ8世(1416-1440年) 対立教皇フェリクス5世(在位:1439年 - 1449年)

 アヌシーは、サヴォワ家のアメーデオAmedeo 8世(1383-1451:在位1416-1440年)がジュネーブ伯から買い取った町。 アヌシーは1434-1444年、サヴォイア公国の首都であった。・・その間の10年のみシャンベリから首都移動?

◆2.Louisルドヴィーコ(在位:1440-1465年)
◆3.Amadeus IXアメデーオ9世(在位:1465-1472年)
◆4.Philibert Iフィリベルト1世(在位:1472-1482年)

●1400年代、サヴォワ公は、●ニースとトリノを結ぶ山間道路を建設し、ニースを商業都市として発展させることに力を注ぎます。この道路はサヴォワ公国内陸部に塩を運ぶために必要なものでもありました。

●1475年、Grandsonグランソンはシャルル・テメレールの同盟者であるジャコモ・ディ・サヴォイアJacques_de_SavoieJacques_de_Savoieの所領であったが、スイス盟約者団に奪われた。

●サヴォワ侯家とスイス盟約者団は、なにかと権益のぶつかりあいがあった。この時期サヴォワ家はレマン湖の北のヴォー地方の旧家領を回復しようととしていて、ベルンとの間に紛争を起こしていた。
むこうみずのシャルル(シャルル・テメレールCharles the Bold (French: Charles le Temeraire)Charles_the_Bold_1460はサヴォワ家援助を称してスイスに兵を入れ、スイス盟約者団を骨抜きにしようとたくらんだ。
しかし1476年3月2日の「グランソンの戦い」1476年6月22日「ムールテンの戦い」の両度に、ブルゴーニュ軍団は、スイス盟約者団の軍隊に負けた。1477年1月5日シャルルテメレールはナンシーで戦死した。<『ブルゴーニュ家』p274堀越孝一著>



−−−
1480年:●Traversetteトラヴェルセッテ峠のトンネル開通
  (小国サルッツオSaluzzo地域は、周囲をサヴォワ王国領に囲まれ、フランスとの力を得たバランスで独立を保っておいた。西のドフィーネ・エリアと、サルッツオ・エリアとの大きな交易のためには、アルプスのトンネルが必要であった)

・トラヴェルセッテ峠の下に、トラヴェルセッテのトンネルがある。
 峠=海抜2947m、トンネル=海抜2915(または2914m)。
  峠頂上の約30m下にトンネルがある。(ただしIGNのMapは峠=2914mなので、トンネルの位置はさらに低い可能性があります。)
 トンネルの長さは、ほぼ100m、1480年開通し、以降、フランス:モン・ドーフィネとイタリア:ポー地域の重要な通商路となったようです。
 20世紀の大戦で、両国はこのトンネルの入り口を閉鎖した。
 EU以前、このトンネルは両国側に鍵がかけられ、一部ツアーのみが鍵を開けて通過できたらしい。
 現在は、 雪閉鎖が無ければ自由に通過できるようだ。
−−−−−−−−−
 峠の真下のトンネルは、ガリビエ(ガリビエール)峠などにもあるが、峠前後の傾斜は厳しく、登山道路としての整備も難しく、特に冬や雨時期の整備が大変なことからトンネルを作ったのだろうと想定できます。
しかし、1480年という中世の時代に開通ということに興味を持ちます。

●サルッツァ国の、フランスへの交易ルート整備のため作られたトンネルのようにようです。
・・・フリードリヒ4世がサルッツオ侯爵に、工事遂行の勅許証を授けた・・・
ポー川の源流から、ギル川の源流を結ぶこのルート、かなり昔から・・・ハンニバルの時代でも・・・有力な交易ルートだったようにも思えるのです。
---

●トラヴェルセッテ峠のトンネル情報概要。<★トンネルの詳細情報><★サルッツォ紀行
(海抜2882m:Buco di Viso(イタリア語)/Monte_Viso_tunnel(英語))


・モンヴィーゾトンネルは、この峠の頂上(2950m)から68m下に、75mの長さのトンネル(海抜2882m)で、1478年から始まり1480年に開通した。アルプスで最初に掘られたトンネルである。

HumbertII
【Humbert_II:Viennois】
Philip VI
【Philip_VI:France】
・トンネル建設の約30年前、峠の西側はフランス王国領のドフィーネDauphine地域となっていた。

<1349年、Vienneヴィエンヌのドフィーネ公(HumbertIIウンベール2世:(在1333-49:1355死)=神聖ローマ帝国側の諸侯)は、財政難と男子継承者不在の為、世襲領地と称号をフランス王(Philip VIフィリップ6世(在1328-50))に売り渡した。ヴィエンヌの大司教は、異議申立てをしたが1449年に屈服しフランス王に領土を引き渡した>

サルッツオ公爵ルードヴィコ2世
【Ludovico_II:Saluzzo】

・建設当時、峠の東側と南エリアは神聖ローマ帝国側の、サルッツオSaluzzo公爵Ludovico IIルードヴィコ2世(在1475-1503)の領地。(峠の北側はサヴォイエ公国領)


フリードリヒ3世
【フリードリヒ3世:神聖ローマ帝国】
ルイ11世
【ルイ11世:France】
・トンネル建設は、峠西側のフランスはLouisXIルイ11世(在1461-83)の時代であり、ルイの主導でSaluzzoサルッツオ侯爵が建設との記録ある。(アブリエスのパンフから)

・神聖ローマ帝国の皇帝FriedrichIIIフリードリヒ3世(在1452-93)も、サルッツオ侯爵に工事遂行の勅許証を授けた。


・小国サルッツオSaluzzo地域は、周囲をサヴォワ王国領に囲まれ、フランスとの力を得たバランスで独立を保っておいた。西のドフィーネ・エリアと、サルッツオ・エリアとの大きな交易のためには、アルプスのトンネルが必要であった。


【DauphineとMARsat Saluces公爵領の境にトンネル。紫色はサヴォワ領。緑点線は現在の国境で、アルプスの高い山脈】


・しかしサルッツオは結局、1548年にフランスに占領された後、1601年にサヴォアに譲渡された。

---
●1480年に高度2915mに穿たれたTraversetteトンネル
  どんな時代?フランスは?イタリアは?

−−−−−−−
1300年頃:ミラノ〜リヨンはジェノヴァの貿易圏・貿易路で・・・両都市周辺は絹の生産地だった。織物、金属、塩、魚、穀物、ワイン、贅沢品など種類も量も豊富。(EU大陸歴史-p81)
−−−
1388年、プロヴァンス東部がサヴォワ家の統治下になり、ニースを中心とした新しい地方が創設
1388年:サヴォイ公家はニースの領主となる。●1600年頃:フランス・アルプス一帯はサヴォア公国の領地(1860年にニースをフランスに割譲・・・ハプスブルク家のオーストリアに対抗して、イタリアをサヴォイ公家(当時、既にサルディニア王家となっていた)の下に統一するには、フランスの協力が不可欠だったため)
−−−−−−−−−−−−
15世紀:1400年代:になると、サヴォワ公は、●ニースとトリノを結ぶ山間道路を建設し、ニースを商業都市として発展させることに力を注ぎます。この道路はサヴォワ公国内陸部に塩を運ぶために必要なものでもありました。
1402年ルネサンス前期
1429:ジャンヌダルク出現
1438:ハプスブルク家(1278-ルドルフ1世)のアルブレヒト2世が、神聖ローマ皇帝になり、以降歴代皇帝位を独占が決まる(-1806年)。
1453年:東ローマ帝国が滅びる。(=メフメト2世率いるオスマン・トルコ軍が、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。古代ローマ帝国からの栄光を引き継いでいたビザンティン帝国が地上から姿を消した。)
1455-85:イギリスバラ戦争
−−−−
○印刷術の発明 ・・・
1453?頃:グーテンベルクが印刷機を開発
印刷機=プレス(Press=葡萄の圧搾機のこと=印刷機はそれをそのまま流用したもの) 西ヨーロッパに書物が急速に拡大することになった。1480年までに、52の都市に印刷業者が成立していた。その大部分はイタリアにあり、北イタリアにその全体の3割が集中していた。
−−−
○冒険の時代(大航海時代)・・・・コロンブスのアメリカを発見。ヴァスコダガマのインド航路発見。南米に至る。マゼランの世界就航。
1460年:ポルトガルのエンリケ航海王子が亡くなった。その頃、アフリカ西岸を南下して、貿易を行っていた。
1479年スペイン王国成立
1481年:プロヴァンス伯領自体がフランス王国に併合されることになった。それを嫌がったレ・ボーの人々は反乱を起こした。しかし反乱はフランス王ルイ11世によって鎮圧された。
------------
1450年、フランチェスコ・スフォルツァ1世がミラノの権力を掌握し、ミラノ公爵に。
1466年、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァがミラノ公爵位を相続。
1476年、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァが共和主義者によって暗殺された。当時 7 歳のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァがミラノ公爵位を相続した。叔父のルドヴィコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)が摂政となった。
1480年、イル・モーロが甥の公爵から実権を簒奪した。
1488年:バーソロミュー・ディアスが、アフリカ南端の喜望峰を発見。
1492年:コロンブスが大西洋を横断し、アメリカを発見した。
charles8-france.jpg 1494年:フランス王シャルル8世は、ナポリ王国征服を目指し、アルプス越えでイタリアに侵入した。その軍の通過点に当たるフィレンツェにおいて、ピエロ・デ・メディチは屈辱的な態度でシャルル8世に屈服。それがフィレンツェ市民の反発を招き、メディチ家はフィレンツェから追放された。
1494年、イル・モーロの支持を得たフランス王シャルル 8 世がイタリアに侵入し、ナポリを攻略した。王の支援の許に、イル・モーロがミラノ公爵位を奪った。
1495年、イル・モーロがフランスと敵対し、法王側に寝返った。
1495〜1498年:レオナルド・ダ・ヴィンチがイタリアのミラノで「最後の晩餐」を完成。
1497年〜1498年:ヴァスコ・ダ・ガマ、喜望峰を越えてインドに到達
1498年:ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ艦隊がインドのカリカットに到達
1499年:ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ艦隊が南米に至る。
1499年:フランス王ルイ12世が、アルプス越えでミラノを攻略。
1500年:ミラノを奪還しようとしたイル・モーロが敗れ、フランス軍に捕えられた。
1502年:ジェロニモス修道院(リスボン、ポルトガル)、ポルトガル王マヌエル1世の命により建設が始まった。その建設資金は、ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った香料の売却益から出た。
1508年:フランスに捕えられていたイル・モーロが死去。
1510年:ポルトガルがインドのゴア、翌年にはマラッカを占領。
1512年:イル・モーロの息子マッシミリアノ・スフォルツァが、法王ジュリオ2世の支援を得て、ミラノ公国を奪還した。しかし、直ちにフランスがミラノを攻略した。
1515年:マッシミリアノの弟フランチェスコ・スフォルツァ2世が、皇帝カール5世の支援の許にミラノを奪還した。
1515年:フランソワ1世軍がミラノに凱旋入城、ミラノ公国を占領、スフォルツァ家を追放、ミラノをフランスに取り戻す。⇒ スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招き、ルネサンス文化を伝えることになった。
1516年:レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(1452-1519年)は、3枚の絵画(洗礼者聖ヨハネ、モナリザ、聖母子と聖アンナ)とともにアルプス越えし、ロワールのアンボワーズ城に向かう。

------------

○宗教改革
1517:ルター(1483-1546)が95カ条の掲示=宗教改革
---------
●宗教改革
免罪符発行・・・1480年頃ヨーロッパの町々で「笛吹き男」の噂に脅えていた。笛吹き男は1284年ドイツのハーメルンで起こった130人の子供を連れ去ったとされる事件であるが、当時の精神状態は森や川に魔物精霊が渦巻いており、至るところに魔女や仙女が居ると信じられていた。 それを避けるために聖人聖女の遺物が必要とされ、それを求める為家元のローマバチカンへ多くの人が交通した。その巡礼者や交易商があのハーメルン事件の1284年を起点とする暦を使い、「笛吹き男」の再来を防いでいると語ったという噂がヨーロッパ中に広まった。皇教イノケンティウス8世はローマカトリック教会を挙げて「笛吹き男」と戦うべく決心した。

「異端審問至高庁」は教皇の命を受け異端審問官ハインリッヒクレーマー(1430〜1505)とヤコブシュプレンガー(1436〜1495)を中心にして、ヨーロッパ中のあらゆる文献と話を集め魔師に対する対策を出版した。●たまたまドイツのマインツ市に住むグーテンベルグ(1400〜1468)が鉛にスズ・アンチモン・ビスマスを入れた合金による鋳造活字による印刷技術を発明しており出版物の配布は容易になっていた。この本は「魔師への鉄槌」と名づけられていたが1489年ヨーロッパに配布され、魔師・魔女の見分け方から殺し方まで丁寧に示されていた。

「魔師」との戦いを行うローマ教会は1506年から戦いの本営としてローマのサンピエトロ大聖堂の大改修を行うことにした。問題は金でありここで免罪符を発行し、これさえ買えば罪を犯しても天国へ行けると触れ回り、販売は教皇庁の財政を司るフッガー家が協力した。

ルターの反対
東ドイツのヴィッテンベルグの教授ルタ―(1483〜1546)は必ずしも理性から免罪符の不合理性を指摘したのではなく、悪魔を除くにはそれ相応な霊力が必要でその言葉を紙に書いただけでは効力が無いと考えていたからである。 ともかく1517年10月31日公開討論会を呼びかけヴィッテンベルグ城教会の扉に免罪符を攻撃する「95ヶ条の論題」を発表した。この論議は印刷され、前年出来たばかりのタッシ―家の郵便(イタリ―のタッシ家が政府の郵便を無料で運ぶ代わりに神聖ローマ帝国内の郵便事業を独占する特許を1516年得た)によりドイツ・スイス全土に広まった。

ローマカトリック教会はドミニコ会を中心に猛然反撃した。それに政治問題も絡み厄介な事になった。即ち1519年スペイン王がハプスブルク出身者として神聖ローマ皇帝を兼ねる事になっていたので、挟まれるフランスのヴァロワ家は其れと対立し、イツ国内では反皇帝派領主,反教皇派市民,反商業派農民はそれぞれの思惑からルタ―を支持し、「福音派」または「抗議派プロテスタント」として混乱が続いた。ルターは1518・1519・1520年の三年間多くの本を出版したが中でも1520年の「キリスト教徒の自由」は救済と儀式と教義を独占するローマカトリック教会を否定する事になってしまった。このため1521年ルターはローマカトリック教会から破門された。その後反皇帝派ザクセン侯の庇護の下に一般民衆でも読めるようラテン語でなく、ドイツ語で聖書を作り1522年に出版した。

スイスのツヴィングリー(1484〜1531)はルターの決起を知ると1522年スイス友愛会を作りチューリッヒ・ベルン・バーゼルの諸都市をカトリックと縁を切り新教の都市にした。又トーマスミュンツアー(1489〜1525)は千年王国説と階級革命論を結び付け、教会ではなく精霊による「再洗礼」を訴える結社をドイツ農民の間に作った。トーマスミュンツアーはルターの決起に応じドイツ農民戦争を起こし(1524〜1525)ツヴィングリーも又これを支持した。しかしルターはそれに反対で諸侯領主と共に弾圧する側に立った。オランダのエラスムスはルターを「信仰より善行によって救済の恩寵を受けることが出来る」と批判した所、ルターは「人間は自由でなく信仰を問われる神の奴隷である」と反論した。結局ルターのカトリックに対する改革は中途半端のものであった。
---------
1519-22:マゼランの世界就航
−−−−−−−−−−−−



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

****************************
1480年:
ハプスブルク家の分裂とスイスの喪失??(1365年〜1440年)
 第五章 フリードリヒ五世の諸政策(1440年〜1493年)
***********************
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/World/Hugues/Valois/valois10.htm

|               +―●フランソワ2世―――――――――+
|               |  [1478-1513]           |
+―●フランソワ1世――――――+  ロングヴィル公         |
|  [1447-1491]        |  配:フランソワーズ・ダランソン |
|  デュノワ・ロングヴィル伯 |+―――――――――――――――――+
|  配:アニェス・ド・サヴォア||
+―カトリーヌ         |+―ルネ
   [1449-1501]        ||  [1508-1515]
   配:ルシ伯ジャン     |+―ジャック
                |   [1511-1512]
                +―●ルイ1世――――――――――――+
                |  [1480-1516]           |
                |  ロングヴィル公         |
                |  配:ジャンヌ・ド・ホッホベルク |
                +―ジャン              |
                   [1492-1533]           |
***********************
フリードリヒ4世
   (チロル公)   
ティロル公フリードリヒ4世(1383(1382)?-1439,6,24)
************************

−−−
−−−
●スイス:エーグルAigle城は、1482-85年、ベルン人が奪還した。
スイスのエーグルAigle城は、12世紀末以降サヴォワ伯の地だった。1464年、ベルン人は、エーグルの町と城を奪還しようと試みたが、成功しなかった。 1482-85年、ベルン人は再び奪還の戦いで勝った。
  紀行:r-site:2005.9.10:Col-Mosses
エーグル城Chateau d’Aigle




◆5.Carlo Iカルロ1世(在位:1482-1490年)
◆6.Charles (II) John Amadeusカルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ(在位:1490-1496年)
◆7.Philip IIフィリッポ2世(在位:1496-1497年)
◆8.Philibert IIフィリベルト2世(在位:1497-1504年)  <↓次世紀に継続>



<1500-1599年>


◆8.Philibert IIフィリベルト2世(在位:1497-1504年)
◆9.Charles IIIカルロ2世(在位:1504-1553年)



Chateau de Chillonシヨン城 ・●スイスのシヨンChillon城は、1150年頃からサヴォワ(サボア/サヴォイア)伯爵家の所有だったが、1532-36年には宗教改革推進派のボニバールが捕らえられ幽閉され、1536年プロテスタント教徒の攻略で城はベルン人のものとなり、ボニバールも開放された。
  紀行:r-site:2005.9.8:Rochers-de-Naye

---
 1526年宗教改革の何年もの戦いの後に、サヴォワはジュネーブ地域を失いました。このヴォー州がスイスに加盟したのは1536年のことです。この年フランソワ1世がサヴォワに侵略、以降23年間フランスに占領統合されてしまいます。アンリ2世を破ったエマヌエレ・フィリベルトのおかげで領土を回復し、1562年フランスから遠いトリノに首都を移転したわけです。
  紀行:t-site:2007.6.7

−−−

Chateau des Ducs de Savoieサヴォイア家の城
【Chateau des Ducs de Savoieサヴォイア家の城】
●1562年:シャンベリー:サヴォワ王国の330年間の首都を閉じる⇒トリノに首都を移転
https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/607/607chambery.htm
1526年宗教改革の何年もの戦いの後に、サヴォワはジュネーブ地域を失いました。

1526年フランソワ1世(Francois I :France, 1494-1547年、ヴァロワ朝第9代のフランス王(在位:1515-1547年)がサヴォワに侵略、以降23年間フランスに占領統合されてしまいます。〜1549年

1549年:エマヌエレ・フィリベルトが、アンリ2世(Henri II de France,1519-1559年、ヴァロワ朝第10代のフランス王(在位:1547-1559年)を破り、サヴォイアの領土を回復。

◆10.Emmanuel Philibertエマヌエーレ・フィリベルト(在位:1553-1580年)

・1562年:シャンベリーは1232年〜330年間にわたって、サヴォワ王国の首都だったが、フランス国から遠いトリノに首都を移転した。
・アヌシーは、ルソーが来た頃は16世紀後半の宗教改革がヨーロッパ各地に広がり、ジュネーブなどスイスのカトリック系の領主・聖職者たちがこの街に避難・集まりだした時代である。 <1562-1602>


【1580年の領土】


◆11.Charles Emmanuel Iカルロ・エマヌエーレ1世(在位:1580-1630年)  <↓次世紀に継続>
・1596年:Vicoforteヴィコフォルテ:楕円形の巨大な建造物Ascanio Vittozziを着工するも中断、再開し1733年の完成まで3世紀かかった。


<1600-1699年>


◆11.Charles Emmanuel Iカルロ・エマヌエーレ1世(在位:1580-1630年)


【DauphineとMARsat Saluces公爵領の境にトンネル。紫色はサヴォワ領。緑点線は現在の国境で、アルプスの高い山脈】

・1601年:サルッツオは1548年にフランスに占領された後、1601年にサヴォアに譲渡された。

◆12.Victor Amadeus Iヴィットーリオ・アメデーオ1世(在位:1630-1637年)
◆13.Francis Hyacinthフランチェスコ・ジャチント(在位:1637-1638年)
◆14.Charles Emmanuel IIカルロ・エマヌエーレ2世(在位:1638-1675年)
◆15.Victor Amadeus IIヴィットーリオ・アメデーオ2世(在位:1675-1730年)  <↓次世紀に継続>



<1700-1799年>


◆15.Victor Amadeus IIヴィットーリオ・アメデーオ2世(在位:1675-1730年)
 スペイン継承戦争(1701-1714年)では初めフランス側だったが、1703年に密かに同盟に連絡を取っていたことがフランスに発覚すると同盟に復帰、1706年にオイゲンと共に包囲されたトリノを解放した(トリノの戦い)。以後は終戦までオーストリアの将軍ヴィリッヒ・フォン・ダウンと共にサヴォイアのフランス軍と交戦、スペイン継承戦争終結後、ユトレヒト条約により1713年にシチリア王となったが、1720年には四カ国同盟戦争の際に結ばれた条約によりシチリア王位と交換でサルデーニャ王となった。
以後1860年までサルデーニャ王がサヴォイア公を兼ねた。


サヴォイア公+シチリア王

1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得。

【1718年の領地】
1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。

サヴォイア公+サルデーニャ王


サルデーニャ王国King of Sardinia:歴代国王

◆1.Victor Amadeus IIヴィットーリオ・アメデーオ2世(在位:1720-1730年)
◆2.Charles Emmanuel IIIカルロ・エマヌエーレ3世(在位:1730-1773年)
・1733年:Vicoforteヴィコフォルテ:楕円形の巨大な建造物Ascanio Vittozziは1596年に着工したが中断、再開し1733年の完成まで3世紀かかった。

◆3.Victor Amadeus IIIヴィットーリオ・アメデーオ3世(在位:1773年-1796年)

−−−
●Bardバール/Donnasドンナ 狭い谷間にある、ナポレオン軍が手こずった要塞。
・1563年首都をシャンベリーからトリノに移す。
・1706年サヴォイア公国はオーストリアと連合し、フランスを撃破、その功で王位を与えられ、1713年スペインからシチリア島を割譲され、シチリア王にもなる。
・サヴォイア王は1720年、ロンドン条約によりシチリア島を手放し、代わりにサルデーニャ島を取得しサルデーニャ王となった

1792.8フランス革命軍が現フランスエリアのサヴォワ地方・ニース地方を併合。

◆4.Charles Emmanuel IV カルロ・エマヌエーレ4世(在位:1796-1802年)  <↓次世紀に継続>

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・1796.4.28:ピエモンテ・サルデーニャ王がボナパルトに休戦を申し入れ、Cherascoケラスコで調印。現フランスエリアのサヴォワとニースを割譲し300万リラの戦争賠償金を払う。『フランス革命年代記:J.ゴデシュ:瓜生洋一他訳、日本評論社1987.7、p163』
・1796-1797-1799:ボナパルトとの戦いがサヴォイア各地で起き、南部などが占領される。


<1800-1899年>


◆4.Charles Emmanuel IV カルロ・エマヌエーレ4世(在位:1796-1802年)
・1800年:7月:ボナパルトがサヴォイア国すべてを占領。

◆5.Victor Emmanuel Iヴィットーリオ・エマヌエーレ1世(在位:1802-1821年)

−−−−
  https://www.eu-alps.com/t-site/do-2007/612/612col-tenda.htm
 ・ナポレオン1世失脚の1814年で復国、ジェノヴァなどリグリア地方を獲得。これにより「(地中海)ジェノヴァ〜トリノ」の交易ルートが出来、「(地中海)ニース〜トンデ峠〜ピエモンテ/トリノ」の塩の道は寂れた。
 ・1815年ナポレオン失脚後の返還
  https://www.eu-alps.com/r-site/do-2005/911/911bard-donnas.htm
−−−
◆6.Charles Felix of Sardiniaカルロ・フェリーチェ(在位:1821-1831年)
◆7.Charles Albert of Sardiniaカルロ・アルベルト(在位:1831-1849年)
・1832年:Vicoforteヴィコフォルテ:楕円形の巨大な建造物Ascanio Vittozziは1596年に着工したが中断、再開し1733年の完成まで3世紀かかった。そのすべての工事が完了したのは1832年。

Victor Emmanuel II
【イタリア統一を果たしたVittorio-Emanuele- II】
◆8.Victor Emmanuel IIヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(在位:1849-1861年) → イタリア国王
・1860年:ロンバルディア州、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、教皇領レガツィオーネ地域を併合。
・1860年、フランスのナポレオン3世がイタリア独立戦争を援助し、代償としてサルデーニャ王国からニースとサヴォワ地域がフランスに割譲された。ハプスブルク家のオーストリアに対抗して、イタリアを統一するには、フランスの協力が不可欠だったため。
・1861年、ガリバルディが南イタリア(シチリア含む)を征服。
イタリア統一運動

イタリア国王


イタリア王国:歴代国王

・1861年、イタリア統一でイタリア王国(王家)となる。
  ⇒王国の首都はフィレンツェ(1861-)。
・1866年:ヴェネツィア、ヴェネト併合。(普墺戦争=第3次イタリア独立戦争に参戦の結果)
・1870年:ローマ併合。⇒王国の首都はローマ(1871-)。


◆Victor Emmanuel IIヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(在位:1861年 - 1878年)
◆Umberto Iウンベルト1世         (在位:1878年 - 1900年)  <↓次世紀に継続>



<1900-1999年>


◆Umberto Iウンベルト1世         (在位:1878年 - 1900年)

・「Val-Gressoneyグレッソネイ渓谷のCastel Savoiaサヴォイア城」は1900年頃に建造
  gressoneyrr-site:2005.9.12:val-gressoney記事

◆Victor Emmanuel IIIヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(在位:1900年 - 1946年)
・1919年:南チロル、ヴェネツィア・ジュリアを併合(第一次世界大戦で連合軍側で参戦し、サン=ジェルマン条約で未回収のイタリアを併合した。)
・1912年:モンスニ峠のイタリア側に小さなダムが作られ、1921年:発電所も作られた。
・第二次世界大戦時:一時的にスプリト、コトルとダルマチア沿岸の大部分を併合。
・1942年から1943年までフランス領のサヴォワ、コルシカ、ニースをイタリア軍が占領。だがファシスト政権の敗北により、第二次世界大戦中に獲得したこれらの回収地の全てが失われた。
Umberto IIウンベルト2世(在位:1946.5.9-亡命:1946.6.12・・没:1983年)

 王政廃止と共和制移行 ⇒ 1946年以降イタリア共和国

イタリア共和国

・1947年:パリ講和条約によりトリエステ自由地域(1954年にイタリアとユーゴスラビアに分割)を除くイストリア半島がユーゴスラビアに割譲された。
・1947年2.10:フランスとイタリアは和平条約を結ぶ。第二次大戦のモン・スニ峠での停戦ラインにそい、この領域はフランスになる。同時に、モンスニのダム構築の方針と水資源の共有(フランス=270、イタリア=51:百万立方m)が定められた。




●Savoie サヴォワ伯・公・王家系図
http://nekhet.ddo.jp/people/savoy.html【サヴォイア家系図】
http://www9.wind.ne.jp/【サヴォイア伯家 系図】 【公家】 【王家】



**************** 以下整理中 ***********************************************

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

●●サヴォイ・・・紋章 Savoy Crest Savoie Crest http://www.associationsavoie.ca/blason-e.html

http://www.railsavoie.org/histoire/annalber/【RAIL SAVOIE】


★サヴォワエリアのいくつかのこと:
 ○http://alain.cerri.free.fr/index.html【GLIERES, SAVOIE...:by Alain Cerri】 ●http://alain.cerri.free.fr/index18.html【Photos et histoire de la ville d'Annecy】アヌシーの歴史

History of Savoy - Histoire de la Savoie http://alain.cerri.free.fr/index7.html


lac mont cenis historyのパラメータで調べよ・・・
●ナポレオン/レジスタンス/// −−−−−−−−−−−

●「Histoire Savoie carte」でGoogleイメージ
【歴史地図】

<1355-1439-1451年>
By various means, the counts of Savoy eliminate their rivals. They acquire Faucigny in 1355, the county of Geneva in 1401. With Amedee VIII which reigned of 1391 to 1439 and died in 1451, Savoy, set up in duchy by the emperor in 1416, knew his apogee.
あの手この手で、Savoyのカウントは彼らのライバルを排除します。 それらは1401年に1355年のFaucigny、ジュネーブのカウンティーを買収します。 1391年から1439を支配して、1451年に死んだAmedee VIIIと共に1416年に公園で皇帝によってセットアップされたSavoyは彼の遠地点を知っていました。

<>
Humbert and its successors based their power on the control of the collars of the Western Alps, Cenis mount, Grand and Small Holy Bernard and of their access. The maitrise of the alpine roads was worth with its holder of profitable tolls and allowed him to play a sometimes decisive role in the political play.
アンベールとその後継者は彼らのパワーを西アルプスと、Cenisマウントと、GrandとSmall Holyバーナードと彼らのアクセスのカラーのコントロールに基礎づけました。 maitriseする、時々決定的な役割を果たすために有益な料金の保持者にとって価値があって、彼に許容された高山の道路では、政治犯でプレーしてください。

<1416-1792>
Duchy of Savoy to monarchy sarde (1416-1792)
君主制sardeへのSavoyの公園(1416-1792)

<1416-1440>
 アヌシーは、サヴォワ家のアメーデオAmedeo 8世(1383-1451:在位1416-1440年)がジュネーブ伯から買い取った町。 アヌシーは1434-1444年、サヴォイア公国の首都であった。
(*●?・・1232-1562年はシャンベリがSavoyの首都・・その間の10年のみ?)

<1476>
After the reign of Amedee VIII, the Savoyard state knew a long eclipse due to some extent to the weakness of its successors, but also to the increasing ambition of its neighbors. The Swiss ones devastated and held to ransom the country of Savoyard Vaud (1476). French monarchy directed its ambitions towards Italy and the "Gatekeeper of the Alps" had the appearance of an obstacle.
アメデオ8世の治世にある程度当然の長い食を後継者の弱点に知っていましたが、増加する隣人の野心のことにも知っていた、Savoyardが、述べる後。 スイスのものは、荒らして、Savoyard Vaudの国を賠償するために成立しました(1476)。 フランスの君主制はイタリアに野心を向けました、そして、「アルプスの門番」には、障害の外観がありました。

<1526-1536>
In 1526, after years of fight, the duke loses Geneva. That Ci, rejoined with Calvin, joined the Swiss Confederation. In 1536, under pretext of carry help to the town of Geneva threatened by the duke Charles of Savoy, Bernois invaded the country of Vaud and Chablais. The same year, Francois 1st seizes the first pretext to invade Savoy and Piedmont.
n1526、何年もの戦いの後に、公爵はジュネーブを失います。 カルヴァンと共に再び加わられるそのCiはスイス連邦を接合しました。 1536年に、ジュネーブの町へのキャリーヘルプという口実で、Savoyのチャールズは公爵で脅かしていて、BernoisはVaudとChablaisの国に侵入しました。 同じ年に、フランソア1番目はSavoyとPiedmontに侵入する最初の口実を捕らえます。

<>
This first occupation marks the end of the medieval duchy.
この最初の職業は中世の公園の端を示します。

<1547-1558-1559>
It is Emmanuel-Philibert, known as Iron Tete, which will restore the Savoyard duchy. With the service of the emperor Charles Quint, his great victories of Muhlberg (1547) and Saint Quentin (1558) enabled him to assert the paternal heritage at the time of the treaty of Cateau-Cambresis in 1559 between France and Spain.

<1547-1558>
Savoyard公園を修復するのは、Ironテーテとして知られているエマニュエル-Philibertです。 チャールズQuint皇帝のサービスで、彼のMuhlberg(1547)とセイント・クェンティン(1558)の大勝利は、彼が1559年にCateau-Cambresisの条約時点でフランスとスペインの間で父方の遺産について断言するのを可能にしました。

<16世紀後半>
ルソーが来た頃は、16世紀後半の宗教改革がヨーロッパ各地に広がり、ジュネーブなどスイスのカトリック系の領主・聖職者たちがこの街に避難・集まりだした時代である。 <1562-1602>
The Capital is transferred in 1562 in Turin. The weight of Piedmont compared to Savoy accroit from generation to generation. With the Swiss Confederation and France, Savoy deals with too strong part. It loses several provinces in favour of these powerful neighbors. An ultimate attempt counters Geneva in the night from the 11 to September 12 1602 shows cooking failure of the "Escalade ".

1562年に●トリノへ首都を移します。 Piedmontの重さは代々、Savoy accroitと比較されました。 スイス連邦とフランスと共に、Savoyは強過ぎる部分に対処します。 それはこれらの強力な隣人を支持していくつかの州を失います。 究極の試みは夜、11?「はしご登り」の9月の12 1602ショー料理失敗までジュネーブを打ち返します。

<1580-1632>
Charles-Emmanuel (1580-1632) and his successors then turned their ambitions on Italy parcelled out by pushing their advantages until Tessin and the Lake Maggiore. Of a proverbial duplicity, the dukes of Savoy could keep the free hands in Italy, while avoiding facing France, Spain and Austria.
チャールズ-エマニュエル(1580-1632)とそして彼の後継者は彼らの野心をマッジョーレテシーンと湖までそれらの利点を押すことによって分配されたイタリアに変えました。 ことわざの二枚舌では、フランス、スペイン、およびオーストリアに面しているのを避けている間、Savoyの公爵はイタリアに自由行動を保つかもしれません。

<1600-1690-1696-1703-1713>
Savoy was occupied on several occasions, in 1600 pennies the reign of Henri IVet in 1628 with Richelieu. It is the duke Victor-Amedee II who goes entrainer the sharpest tension by mobilizing a coalition anti-Frenchwoman. Savoy and part of Piedmont were occupied,de 1690 to 1696 and of 1703 to 1713, by the troops of Louis XIV. The treaty of Utrecht (1713) returned in Victo-Amedee its increased grounds of Sicily which will be exchanged against the small kingdom of Sardinia.
チリメンキャベツは1628のアンリIVetの治世に時折、1600ペニーでリシュールに占領されました。 公爵は行くビクタ-Amedee IIです。それ、連合反フランス人を動員する最も鋭いのが張力をかけるエントレイナー。 Piedmontのチリメンキャベツと一部が、占領されたdeの1690年から1696であり、1703年から1713年のそうです、ルイスXIVの軍で。 ユトレヒト(1713)の条約はVicto-Amedeeでサルジニアの小さい王国に対して交換されるシチリアの増加する構内を返しました。

<>
From the moment when Victor-Amedee became king, the whole of its States was indicated like "kingdom of Sardinia", Savoy and Piedmont constituting the "Firm States de Terre".
ビクタ-Amedeeが王になった瞬間から、Statesの全体が「堅いStates de Terre」を構成する「サルジニアの王国」、Savoy、およびPiedmontのように示されました。

<>
From one Annexation to another (1792-1860)
<>
1Annexationから別のAnnexationまで(1792-1860)

<>
In September 1792, without combat, the French revolutionary troops occupy Savoy. A Parliament of Allobroges, elected by the communes of Savoy, voted the annexation in France. The unanimity of the beginning is disturbed by the introduction of the conscription and the persecution of the priests. The peasants revolt in April 1793 in Haut-Faucigny and May in the valley of Thones, the small Vendee. Against revolutionists seize Annecy from the 21 to August 23. Risings are repressed hard, the heroin of resistance thonaise, Marguerite Frichelet, is shot on Paquier of Annecy.
1792年9月に、戦闘がなければ、フランス人の革命の軍はSavoyを占領します。 Savoyの親交によって選出されたAllobrogesの議会はフランスで別館について投票しました。 始めの満場一致は徴兵の導入と聖職者の迫害で擾乱されます。 農民はHaut-Faucignyと5月に1793年4月にThones、小さいVendeeの谷の中で反乱を起こします。 革命派に対して、21からアヌシーを8月23日まで差押えてください。 新進は一生懸命鎮圧されて、抵抗のヘロインはthonaiseされて、Marguerite FricheletはアヌシーのPaquierにおけるショットです。

<>
In the Empire of Napoleon, the Savoyard ones held their modest role and provided their quota of conscripts. However, the wars and economic and military deterioration since 1812, reinforce the wait-and-see policy of notable and the desobeissance of the poor conscripts unable to pay a substitute.
ナポレオンのEmpireに、Savoyardものは、それらの穏やかな役割を保って、それらの徴集兵の割当てを供給しました。 しかしながら、1812、著名人の静観政策とaを支払うことができない貧しい徴集兵のdesobeissanceが置換する補強以来の戦争と経済の、そして、軍事の劣化。

<>
The fall of Napoleon brought back the dynasty sarde in its hereditary States. From 1849, the new king Victor-Emmanuel II and his Cavour minister aim at an Italian reunification and the expulsion of the Austrians, Masters of Milan and Venice. Cavour secures alliance of Napoleon III. The victories franco-sardes of Magenta and Solferino allowed the ousting of the Austrians of Milan. The Italian states, protected by Austria, are effondrent and their population rejoin the house of Savoy. Victor-Emmanuel is crowned on May 17, 1861 king d' Italie.
ナポレオンの陥落は世襲ののStatesで王朝sardeを返しました。 1849年から、新しいIIビクタ-エマニュエル王と彼のカヴールの大臣はイタリアの再統一とオーストリア人の追放、ミラノとベニスのMastersを目的とします。 カヴールはナポレオン三世の同盟を保証します。 MagentaとSolferinoのfranco-sardesがミラノのオーストリア人を追い出すことを許した勝利。 オーストリアによって保護されたイタリアの州はeffondrentです、そして、それらの人口はSavoyの家に再び加わります。 'ビクタ-エマニュエルは1861年5月17日d'Italie王の上で戴冠します。

<1860>
In front of such events, the emperor Napoleon III monnaya at best his intervention. He was made yield by the treaty of Turin of March 24, 1860 Nice and Savoy. The vote for all ratifies with one crushing majority the decision taken in Turin.
せいぜいそのような出来事、ナポレオン三世monnaya皇帝での彼の介入。 彼は1860年3月24日のニースとSavoyのトリノの条約による人工の利回りでした。 すべてへの票は1つの壊滅的な大部分と共にトリノで取られた決定を批准します。


http://www.amitm.com/thecon/lesson6.htmlItalian Unificationイタリア統一

http://www.answers.com/topic/risorgimentoイタリア(1815-70)/ドイツ(1815-71)統一

http://www.nice.fr/mairie_nice_8596.html・・ニース地域の歴史地図・・●有効  1310-1388-1524-1614-1720-1818-1947

−−−
http://alain.cerri.free.fr/index.html・・Alain Cerri GLIERES, SAVOIE...・・フランスレジスタンスの歴史+サヴォワ+・・

http://alain.cerri.free.fr/index7.html・・History of Savoy - Histoire de la Savoie・・●有効
http://alain.cerri.free.fr/index18.html・・Histoire d'Annecy : grandes dates −−−
http://savoie-maurienne.latitude-gallimard.com/savoie-maurienne-article0392.html・・savoie-maurienne各地の砦説明

http://www.jndstravelog.com/Europe/Savoie2006/Savoie_01.htm・・各地観光写真



ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る 峠indexへ戻る

[峠マルチIndex]/[1位]/ [10]/ [20]/ [30]/ [40]/ [50]/ [60]/ [70]/ [80]/ [90位]/ [1000m未満]/ [歴史/登山峠]/[トンネル]/ [解説]/[アルプスと歴史]/ [街道]/ [鉄道]/
[LINK/FAQ/情報提供]/ [フランス]/

ヨーロッパアルプスのハイキング地図
【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】
  【国別地図】  【日本語ガイド本】
count