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歴史上の「大量・凍死」戦い・事件−Die of Cold/Freeze to Death

 ハンニバルのアルプス峠越えの最大の犠牲が出たのは、最後のイタリアへの峠越え凍死者(と推定される)「約1万人」でした。
 歴史の中で、大量に山岳で凍死した事件を集めてみました。

スヴォロフ将軍のアルプス越え:クリックで詳細表示
【アルプス越えルート:クリックで詳細表示】
●1799年:

ロシアのスヴォロフ将軍のアルプス越え

・・・死者約6,000人(気象によるものではないが)
−−−
事件のあらまし
(フランスの将軍ナポレオン軍は、1798年スイス全土を支配し「ヘルヴェティア共和国」とした)

ロシアのスヴォロフ将軍Alexander Suvorov(1730-1800)は、1799年オーストリア・ロシア連合軍司令官としてフランス革命軍を北イタリアで破った。その後スイス戦線に向かった。

・1799.9.19:Bellinzonaベリンツォーナ(230m)を21,000の軍勢で通過。→

・9.24-:フランス(ナポレオン)軍と戦いながらSt.Gotthardゴットハルト峠(2108m)を越え→碑(Suworow-Denkmal)→(9.25:悪魔の橋を越えた)→

suvorov ・9.26:Altdorfアルトドルフ(460m)まで下りたが、→

・9.27:フランス軍の激しい抵抗でKinzigpassキンツィ峠(2073m)を越え→

・9.29:Pragelpassプラゲル峠(1550m)を越え→

・10.1:Glarusグラールス(480m)に下りた。→

・10.5:またもフランス軍におそわれる。

・10.6:Panixerpassパニクサー峠(2404m)に向かうが、深い雪で登山ルートも見えず。裸足に近い靴、汗、空腹、疲れなどで多くの兵が滑落・動けなくなり・遭難した。夕刻、軍の先頭がPANIX / Pigniu村にたどり着いた。



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歴史上の「山岳・凍死」事件
−Die of Cold/Freeze to Death

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・10.10:連合軍と合流し、Churクール(580m)まで逃げたが、その後故国ロシアに戻った。
>  スヴォーロフの大胆なアルプス越えは、ハンニバル以来のことと賞賛され、ロシア大元帥の地位が授与され凱旋行進も行われたが、時のロシア皇帝パーヴェル1世は突如、全ての地位と名誉を取り上げ、罪を着せ軍から追放した。

・翌年の1800年5月スヴォロフ(70歳)は、サンクトペテルブルクで病死。
・スイスは1803年仲裁条約、ナポレオン敗退後の1815年永世中立国として独立した。
・1899年:ロシアはスヴォーロフ元帥の奮戦と戦死者を称えるために、記念碑を建てた。(スイスはロシア軍などの奮戦もあり、最終的にフランス傀儡国家を脱して永世中立国になることができた恩返しに、記念碑の敷地をロシアに割譲した)
−−−

本:宮下啓三著『700歳のスイス』:筑摩ライブラリーP76
アレクサンドル・スヴォーロフ【Wiki:この解説では「逃げた」とはせず「振り切った」としている】
−−−
ロシアのスヴォロフ将軍Alexander Suvorov
http://en.wikipedia.org/【wiki/Panix_Pass:歴史記述】
http://www.nzz.ch/【行軍の記述】
http://www.1799.ch/コース地図 スヴォーロフ博物館(LINTHAL-Elm)
http://www.trail.ch/【Chinzig:写真】
スヴォロフ山行コース【ロシアの将軍スヴォロフの行軍を辿る山行き:BURGLEN(Uri州)からMuotathal(SZ州)へ】
http://de.wikipedia.org/【wiki/Suworow-Denkmal:訳:スボーロフ記念碑:完全にスイスの領土】

http://www.wandersite.ch/【Chinzig Chulm - auf den Spuren Suworows】

●1812年:

ナポレオンのロシア遠征

:「冬将軍」による・・・撤退の過程で37万が死亡し、20万が捕虜。凍死者数万?人
−−−
事件のあらまし
 1812年ナポレオンの率いるフランス軍(60万人居たという)がロシアに侵入。9月にモスクワに入るが、ロシア軍がモスクワに火を放ったため、越冬の準備をしていない10万のフランス軍は退却する(10月19日)。

 退却途中のロシア軍・ゲリラの奇襲、さらに11月にはいると「冬将軍」と呼ばれる気候の到来=寒気と降雪。(11月8日)スモレンスクに3.7万がたどり着く。食料や燃料はほとんど無く、ベレジナ川まで退却したときには3万に。ロシア軍の追撃(11月26日〜)で渡河した兵は8,500。(12月10日)ニーメン(ネマン)川を渡りロシアを脱出したのはわずか5,000。パリに戻れたのは4万人以下。

フランス革命とナポレオン
wikipedia.ナポレオン戦争
リトアニアで、敗退ナポレオン軍1000遺体を発掘(2001.10)のニュース

<ちなみに1800年5月、ナポレオンの冬のグラン・サン・ベルナール峠越え時には、4万人のナポレオン軍に凍死者は出なかったようです。>


●1842年:

第一次アフガン戦争:カブール〜ジャララバードの退却

・・・凍死者約1万?人
−−−
事件のあらまし
 アフガン戦争は3次にわたりイギリスとアフガニスタンとの間で戦った。(1839年-)

1842年1月6日、イギリス人17,000人(兵士5,000人、民間人12,000人)はカブールから退却した。

違約で狙撃を受け、われがちに逃げ出す烏合の衆となった。夜営時テントは1つしかなかった。

アフガニスタン高原地帯の冬は昼0度、夜零下40度の気候。屋外で寝、相当数の死亡者と凍傷患者が出た。

1月10日夕刻までに4,750人(兵士750人、民間人4,000人)。1月12日コードカボール峠で2,200人(兵士200人、民間人2,000人)にまで減った。

カブール〜コードガボール峠〜ガンダマク〜ジャララバードは80マイル(129km)、1週間の行程だった。

ジャララバード到着は兵士5人(民間人?)。この死の行進による犠牲者の大半はアフガン人の射撃によるものでもなく、刺殺されたのでもない。凍傷で死亡した。イギリスの歴史上最も悲惨な退却だったと言われる。

第一次アフガン戦争


●1902年:

八甲田山 雪中行軍遭難

・・・凍死者約200人
−−−
事件のあらまし
 1902年:明治35年1月23日AM6時55分陸軍歩兵大尉、神成文吉の率いる210名が田代温泉へ向かい、翌日八戸平野へ上陸するロシア軍を三本木平野に向かい打つという想定で出発し遭難にあう。

行軍参加人員 210名→死者 199 生存者11

世界山岳遭難史上最大の事故・・・(?)

八甲田山雪中行軍遭難100周年 「関係ホームページ・図書」も
八甲田山 雪中行軍遭難悲話
青森歩兵第5連隊  八甲田山雪中遭難事件
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●1914年:

第1次大戦のコーカサス戦線でトルコ軍が大量凍死

・・・凍死者約3万人
−−−
事件のあらまし
 ロシアは1914年10月31日に、先週黒海沿岸が旧ドイツ海軍艦艇ゲーベン・ブレスラウに艦砲射撃をうけたため、トルコに宣戦を布告した。

トルコ第10軍団は真冬のカフカス山脈、標高2,700mの峠を越え、サリカミッシ北方に出ようとしたが、これは冬山登山で、1個軍団が全滅し、サリカミッシに着いたときには残りも全員凍傷でロシア軍の治療とする状態で捕虜になった。

サルカミッシュ地方を占領したロシア軍は3万名ものトルコ軍の凍死体を各地に発見したという。

コーカサス戦線とアルメニア人の虐殺
アルメニアの歴史




●1919年:

バイカル湖の悲劇:未曾有の大量凍死

・・・凍死者約125万人?
−−−
事件のあらまし
 第一次大戦の最中、ドイツとの戦い中の帝政ロシアに革命が起き、1917年2月ロマノフ王朝は崩壊した。政権を握ったソビィエト政府はドイツと休戦協定を結み、逆にロシア国内で帝政ロシアの復活を目指す白軍との戦いを始めた。

 白軍は東ウラルのオムスク(Omsk)を拠点に、革命軍である赤軍と戦ったが、1919年の11月に占領されてしまい東にシベリアを横断して逃れる。白軍50万人、貴族、僧侶など亡命者75万人(約25万人以上は女性や子供)。

 冬将軍到来で連日零下20度まで下がり、烈風吹雪の中、死の行進は3か月後、約25万の人が2000キロ離れたイルクーツク(Irkutsk)までたどり着いたが、この間約100万人近くが凍死した。

 さらにバイカル湖(Lake Baikal)横断中、残った25万人も全てが凍死し、春の雪解けで湖底に沈んだ。 彼らは帝政ロシア復活のための軍資金約500トンのロマノフ金貨と財宝を携えていたという。



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史実に隠れた衝撃的な話「バイカル湖の悲劇〜人類史上、未曾有の大量凍死〜」
25万人の死者が沈む悲劇のバイカル湖  写真
ロシアのプーチン首相、バイカル湖の湖底を視察(2009.8.1)
ロシアの未発見の秘宝
1918−22年、シベリアの社会・政治情勢(ロシア革命の貨幣史)
http://ru.wikipedia.org/【wiki/ロシア語】
http://en.wikipedia.org/:Great Siberian Ice march


●1934-1936年:

長征(ちょうせい)

:30万人が3万人に・・死者27万人
−−−
・国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動。

・ハンニバルのアルプス越えは休日の遠足だ・・ by「スーパー世界史」謝 世輝 p578-
−−
 ☆http://ja.wikipedia.org/【この情報だと7万人程度の死亡・脱落などとある】

●1939年:

第二次大戦:フィンランド冬戦争でソ連軍が大量凍死

・・・凍死者10数万人
−−−
事件のあらまし

 1939年11月30日、ソ連軍は約50万の兵力でフィンランドに侵入「冬戦争」が勃発した。開戦初期の気温は例年になく高く、この時期には凍結するはずの湖沼や湿地が凍らず、ソ連軍機械化部隊の通行を各所で妨げた。

 しかしソ連軍のが奥深く進んできたころ、気温は一転して零下46度という凄まじい極寒になった。包囲されて補給を断たれていたソ連軍は異常な低温下で精神的・肉体的に追いつめられ脱出を企てるが、その殆どは道不案内の深い森の中に迷い込んで凍死していった。

 さらに12月末の凍結した湖の上を総退却中、フィンランドの爆撃によって氷が割れ、湖の中へ消えたり森の中で凍死した。

 この「冬戦争」を通してのソ連軍の損害は戦死20万、負傷60万、捕虜5600に上った。戦場によってはソ連軍部隊の戦死者の7〜8割が凍死によるものだったと言われている。

ノルウェー侵攻作戦
・本:「第二次世界大戦」ジョン ピムロット, アラン ブロック(著), 田川 憲二郎 (訳)。河出書房新社。p38-参照


参考:佐々成政(さっさなりまさ)の北アルプス「さらさら越え」伝説

佐々成政

・天正12年(1582)、徳川家康に支援を求めて、厳寒期の北アルプスを越えた。死者情報は不明。

・ルート(諸説ある):立山弥陀ヶ原〜松尾峠〜立山温泉〜ザラ峠〜黒部川〜鉢ノ木峠〜信州仁科(大町)

<関連サイト>
「佐々成政」と越中の国
佐々成政:真実だった、厳冬の北アルプス[さらさら越え]
魅力的なストーリー:花の物語【ルート図】


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