ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る この旅のtopへ戻る 前ページに戻る 次のページへ  Time/Data count ヨーロッパアルプスのハイキング地図
【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】
  【国別地図】  【日本語ガイド本】


【ケルト人の頭巾像:2-3世紀】

Pianura padanoポー川上流域の平野に
 ・・・数万人の大量凍死の歴史もあったのです・・・

ハンニバルの進軍状況  ポー川支流の源流を下り、平野に到達します。心身ともに疲れきり、ぼろぼろの兵士達。その後ハンニバルと軍はどうしたのでしょう・・・・
イタリア:ピエモンテ州】 [北村 峠一].(Kitamura)     

 下るにしたがいポー川の支流、Varaitaヴァライタ川の河原がはっきり分かるようになります。下りの勾配も、そして道路のカーブの数も徐々に減ってきます。森林限界の下に下りてきて、山小屋も見え始めます。


【346.jpg:道路の右下にVaraita川(ポー川の支流)源流の河原が見える】

  
【368.jpg:最初の建物・数軒の小屋が】 【378.jpg:正面はTour-Real山(2877m)のピーク・・・山肌に岩が】 【385.jpg:こんな岩が立ちはだかったら、ダイナマイトなどの火薬がないと、ちょっと壊せない】


 そして峠から見下ろした村、Chianateキアナーレまで降りてきました。海抜1818mまで約1000mを数分で下ってきたのです。・・・気圧が上がって・・・高山病なら快適になるはずなのですが・・・

 上空に雲などなく、天気はいいはずなのですが、なぜか全体にもやがかかっているような・・・遠くまで見晴がききません。目がおかしいのかな?・・・などと考えながら4日ぶりの峠ドライブです。


【388.jpg:ようやく遠くに集落が見えてきた】

 
【3b7.jpg:やっとChianateキアナーレの村、標高1818m】【3b1.jpg:村の教会・・・二つも塔が見えるということは・・・二つ教会がある】


 大きなダム湖と思われる湖水に沿って、村の道を走ります。石ぶきの屋根・・・イタリアの風景です。


【404.jpg:Pontechianale村。海抜1614mのMaddaleanaからダム湖に沿って】


【3d6.jpg:消防車/作業車、人家・ホテルが見え出し、Casteldelfinoの分岐点に】


【440.jpg:Torretteの集落】



 海抜が1000m以下になって、Sampeyreサンペイレの町(海抜976m)に入ります。ステンドグラスがある立派な教会(15世紀のバラ窓、ゴシック様式の教区教会)の脇を通り・・・さらに下ります。


【451.jpg:Sampeyreの教会:15世紀のバラ窓、ゴシック様式】



【トリノからモンテヴィーゾを見る。
山の右稜線にトラヴェルセッテ峠がある。
(G-p97)】

 実はまだ、ちょっと例の頭のくらくら(?)感が再発しています。4日前に感じた車酔いの感じなのか?・・・Piascoという村の道路わきに大きな駐車場を見つけ、休憩にします。サクランボの実がいくつかあって、ちょっとつまみながら・・・地元のドライバーなどのタバコ休みを観察しながら・・・20-30分休憩です。酸素が多すぎるような・・・そんな感じです。

 このポー平野あたり、海抜300mほどのポー川の複数支流が、トリノに向かって作る平坦な地。晴れているので、アルプス側の風景が見えのるかと・・・なぜか山の方向に濃いモヤがかかっているようで、まるで遠望が利きません。モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山(モン・ヴィーゾ)の展望を期待していたのですが。

参考:Crissoloから見るモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)

鳥瞰図
【ロンバルディア平原の西部:ピエモンテの鳥瞰図
(北から南を見る)・・鳥瞰図全体

●ピエモンテ・ロンバルディア州の霧について:

 ポー川上流域の平野や、セストリエール峠で、「霧・モヤのようなものの原因は?」の質問に、Mundbergさんから以下の情報を教えていただきました。

・ロンバルディア平原の西部一帯の霧の発生原因は、やはり地形だと思われます。
あのあたりは、アルプスが弓なりに曲がっていて3方を山に囲まれている状態です(南も地中海間際に山があり、飛行機から見ると、霧は地中海間際の山まで達しています)。
従いまして、空気の移動が少なく、昼間に暖められた空気が夜間にアルプスの冷気に冷やされて霧となる・・。また、アルプスから流れ出る水により、空気中の水分も多いことも原因と思われます。すなわち、霧の発生原因は、アルプスそのものといっても間違いないのでは・・。

・トリノの霧は、特に冬に有名で、玉突き交通事故も発生するようです。しかしこの霧に包まれるのは、地表からせいぜい400m位、地表から500m以上に上がれば、雨雲がある場合を除いて霧の上に脱出できることが多いようです。

・トリノで霧の上に脱出できる場所は、ポー川を挟んで市街と反対側(東)にある2つの丘。
 スペルガ聖堂(Basilica di Superga)(675m)・・・(登山電車もある。1949年に飛行機が接触して墜落しトリノの最強サッカーチームが全滅した)
 Colle Della Maddalena(715m)・・・(直接行くバスはない。勝利の塔(女神)(Faro Della Vittoria)が立っています)
 この丘からは晴れると、  モンテローザ、グランパラディーソ、モンビーゾ・・・共に直線約65Km。 エンガディンのベルニナ(方向盤に記載)・・・直線約220km。 などの多くの山々を見ることができます。
−−−

●アルプス〜パダナ平野〜アペニーニ山脈【Vita Felice.comより要約】:
 ⇒【アルプスの歴史も参考に】

 北イタリア:地中海に隆起した南北に連なるアペニーニ山脈の半島と、ヨーロッパの大陸との間にアルプスがあり、それがはさむ広大なパダナ平野には東西に流れるポー川があり、太古の時代に山岳部だけが陸だったのが、氷河・雨でアルプスから流れる土砂がこの平野をつくった。
 パダナ平野はかつて氷河期の頃、氷河によって削られたアルプスの谷になっているところに真水が溜まり、多くの湖がある湖水地方ができあがった。(コモ湖、マジョーレ湖など)
 現在の平野部分が大昔、海の底だったその証拠に、山から取れる大理石には、海の 動物の化石がはっきり見られるものがよくある。もともと石灰質の土壌で、これらの動物の貝殻が高圧力と高熱で大理石が出来上がったから。この動物のカルシウム を含んだ土壌で作られた農産物や、その土地の草を食べて育つ牛などの動物の質が 高いということも、イタリアが上質の食品を作ってきたことと関係している。
 このパダナ平野は、ローマの進軍以前からまずケルト人、エトルリア人、ヴェネト人、 リグリア人などが住んでいた。これは、ローマ帝国崩壊以後も、イタリア統一まで、イタリアのなかでも、北は特に国々がたくさんに小さく分かれていたのも、この事と関係 がある。

<付近のWebサイトなど>
Sampeyreサンペイレ付近のホテル検索
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<関連書籍・地図>
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●イタリア・トリノ:2006年冬季オリンピック関係



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Elephants

●ハンニバルと象が「ポー流域上流」(推定)を進軍した状況など

 −− ポリビオス(BC200-BC118)の記述による。「」は推定の地名 −−
 ●前のポイント「Traversetteトラヴェルセッテ峠を下る(想定)」
 ●前のポイント「Agnelアニュエル峠を下る」
 ●前のポイント「Montgenevreモンジュネーヴル峠を下る」
 ●前のポイント「Crappiereクラピエ峠を下る(想定)」
 ●前のポイント「MontCenisモンスニ峠を下る」


←【●ハンニバルの有力推定ルート





より大きな地図で 2007Tr-avel-R-oot-Po-int を表示
<ここまでの経緯>

 約5カ月前、スペインを出たカルタゴ軍は、ようやくアルプスの最後の峠に到達する。

 軍の規模は、歩兵2万9千、騎兵6千9百、象20頭。

 しかし直前の地元部族の奇襲での疲労、食糧は底をつき、雪・寒さで軍の士気も衰えていた。

 10月22日、山に本格的な雪が降り出した朝、ハンニバルの全部隊は進軍を開始し、峠を下りだした。

 寒さに耐えるためすべての衣類を身につけ、足元も革、布でくるむ。しかし氷・雪の層の足場は悪く、滑り落ち、ケガ、動けないものが多発。荷役の動物も雪・氷に足を踏み抜き、動けない。山肌がえぐられ、道を作るが、氷・雪とともに地すべりが起きる。・・・何人もの兵・動物が体力的・精神的にパニックとなり脱落し、死にいたる。

 夜がきて、移動が危険になり雪の斜面での野営。

<紀元前218年10月23日:アルプスの登り道から13日目。イタリアの平野まで残り2日>

○朝、吹雪はまだ続く。・・・凍死者、寒さで飢えなどで動けない兵が多数いる。彼らを置いて先に向かう。
○まだ暗い時間から、工兵は新たな道の建設を始める。
○少しずつ軍は動き、下る。・・・ゆっくりした行軍・・・吹雪でさらに冷える。
○途中に大きな岩がありそれ以上進めなくなった。巨大で動かず、ハンマー・つるはし・斧などによる程度では壊れなかった。
○絶望がさらに全軍に広がる・・・独自の行動・パニック・・・凍死へ
◎参考:歴史上の「山岳・凍死」事件


●巨大な大岩をどうやって破壊し、道を作ったか・・・

・峠のフランス側にかなりの兵を戻し、森林限界の付近から大量の森の木を切った。動物と兵士は次々とその薪を峠を越えて運んだ。さらに荷物の中から酸っぱいワインを大量に集めた。
・大岩の横・上で薪を焚き、岩を十分に熱し、酸っぱいワインをそそぐ。大岩は砕け、亀裂をつるはし・斧などでさらに砕き、道を開いた。

・・「火で熱した岩盤に酢酸を注ぐと、岩盤はボロボロになり容易に粉砕できるようになる」ことは、スペインの鉱石採掘技術にすでにあったといわれている。

<●注目情報:>
・・ancient literature suggests that there should be burnt rock on the Italian side of the Alps due to his “firing” of the rocks. The Col du Clapier is the only pass where “fired” rock has been found.・・
http://www.si-ontario.utoronto.ca/・・2006年発表
・・古代の記述によると、彼の岩石の「発火」の燃えた岩石がアルプスのイタリアの端のためであるはずであると示唆します。 Col du Clapierは「発火している」岩石が見つけられた唯一のパスです。・・:http://www.excite.co.jp/world/english/直訳。
・・
論文は石の中に発火成分の有無を調べている? 古代は熱した岩に酢を注ぐ・・とあるので? この調査は??

○待つ間、運搬する間にも、小規模の雪崩などが発生・・・巻き添えで・・・滑落・凍死
○大岩を砕くことができ、狭い道を作り、偵察隊はさらに下る。工兵も順次下る。
○一部の歩兵、騎兵、荷役の動物は雪の積もっていない場所まで下り、野営地を築いた。
○降りた動物たちは潅木や森林の草・木を食べた。
○また夜になる。通過できなかった兵・動物は凍える・・・凍死

<紀元前218年10月24日:アルプスの登り道から14日目。イタリアの平野まで残り1日>

○朝、通過できなかった兵、動物の中に、凍死、寒さ・飢えなどで動けないもの多発・・・凍死
○狭い幅の道を、歩兵隊、騎兵隊、輜重隊は下の平野に向かって下っていく
○工兵は、象、荷を移動するための幅広の道をさらに作る。
○軍の先頭は、ポー川の平野部に到着し、キャンプを設営する。

<紀元前218年10月25日:アルプスの登り道から15日目。イタリアの平野に到着>

○工兵は、象・荷のために道を整備・建造。
○歩兵は全員キャンプまで下る。
○夜:ほとんどがポー川の平野部に到着し、キャンプする。>
<10/26頃:イタリアの平野部>
○象もすべて、ポー川の平野部に到着。
○兵、動物、荷の点検把握をする。1万2千のアフリカ兵、8千のスペイン兵、6千の騎兵、象17頭を確認する。
 この峠の下りで、9千の歩兵、9百の騎兵、3頭の象を失った。
 出発から5カ月で、1万8千の歩兵(3.8万→2万)、2千の騎兵(8千→6千)、20or22頭の象(37or39→17頭)を失った。



【ケルト人の頭巾像】

【イベリア歩兵の青銅人形。
上着の上に重い外套。
脇に剣の柄が見える】

●大量凍死事件


・ギャヴィン・デ・ビーア、ジョン・プレヴァスとも、この峠の下りでの約1万もの兵の大量の損害を、凍死とは述べていません。が、私はこの高い山での晩秋における損害は、凍死によるものと考えました。過去の歴史の中で、山岳・雪山などでの大量凍死の情報を集めてみました。

歴史上の「大量・山岳・凍死」事件・・日本の「八甲田山の行軍」、「ナポレオンの戦い」、「第一次」、「第二次大戦」などで、10数万人の凍死者を出した事例がありました。

・大量の死者を出す原因のほとんどは、気象条件による凍死が多いと感じます。



●この寒さに耐えた兵士たちは、どんな工夫をしたのでしょうか?

・当時の兵の絵などをみると、ほとんど裸に近い服装と武装をしています。

・カルタゴ兵や、アフリカ兵、スペイン兵など地中海一帯から集められた傭兵は、この山岳地帯に来てはじめて、厳しい寒さ・雪・吹雪を経験したはずです。

・これだけの冷たい雨・雪・寒さに耐えるためには、防風、断熱、防水性のあるものをまとう必要があります。

・あらかじめ外套、雨具などを持参できた兵はわずかだったでしょう。

・動物の革・毛皮は理想ですが、荷役の動物などの革・毛皮の絶対数は少ないはずです。

・いろいろの記述などから、それは「油」と思われます。

・すべての衣類を身にまとい、足に巻きつけ、入手できるすべての油類(動物油:ラード、バターなど食料や、牛馬ロバなどを解体して取得した脂肪類。植物油:オリーブ油・ごま油など。)を体に塗り、さらに衣類にも染み込ませ・塗りたくったと思われます。


→峠を下ってきた兵たちの外観は、彼らの精神面と同じく、ぼろぼろ・油にまみれ・強烈な匂いを発散する状態だったのではないでしょうか。


●その後のハンニバルと軍:年表・・・( )はハンニバルの年齢

BC.218(29歳):10月末:疲労から回復するため、村の食糧などを手に入れ、以降3日間休養する。
  :ガリアの都(Torinoトリノ)へ使節を送り、同盟を迫るが拒否される。
  :2週間後、その都を攻め、3日間の戦いで城を壊滅させる。
●Torinoトリノの古代の歴史など
・トリノTorinoの名の由来:

  古代ローマ時代以前にはタウリニー人(Taurini)=ケルト系リグリア民族=が居住していた。
  ⇒ローマ共和国領後、ローマ人によってカストラ・タウリノールム(Castra Taurinorum)と命名(紀元前1世紀)。
  ⇒後にアウグストゥスにちなんでアウグスタ・タウリノールム(Augusta Taurinorum)と改名。
  ⇒トリノの名はタウリノールム(Taurinorum)に由来する。
   Taur/Taurini⇒Torino。牡牛おうし/雄牛(toroの複数形tori)からではない。

・ピエモンテPiemonteの名の由来:
  イタリア語のPie dei Monti(山々の足元)が語源


  :周辺部族と同盟し、ガリア人の傭兵を雇い入れ兵を補給する。
  :12月初:ポー川とTicinoティチーノ川の間でローマ軍(指揮官老スキピオ)と戦い、勝利。老スキピオ負傷。
  :12月(22日)、Trebbiaトレッビア川の戦でもローマ軍(指揮官センプロニウス)に大勝(ハンニバル軍3万:ローマ軍4万)。
  :その冬、気候が厳しく、ハンニバルの象は1頭を残してすべて死んだ。

BC.217(30歳):Trasimenoトランジメーノ湖でローマ軍に勝利
  :Appenninoアペニン山脈の峠をこえ、ローマ領内に侵入(牛の角にたいまつを結びつけ夜襲)
  :アプリアのカンナエ村の戦い
BC.216(31歳): カンネで大勝(ローマ軍は史上最大の敗北:ローマ軍死者5万人以上:カルタゴ軍死者も6.7千人)
  :本国カルタゴから物資の援助なく、カプアに駐留。

BC.212(35歳): タレントゥム攻略
  :ローマに進軍。ローマ市民は恐怖で眠れぬ夜が続いた。ローマ側の持久戦で引き返す。
BC.207(40歳):カプアを失う。弟ハスドルバル=バルカがアルプス越え(ハンニバルとは違ったルート・・・モンスニ峠/モンジュネーヴル峠と言われている)をして援軍に現れるが、メタウルスでローマ軍に破れ、その首はハンニバルに届けられる。
  :ハンニバルはそれでも戦い続ける。
BC.204(43歳):スキピオの率いるローマ軍、カルタゴ襲来
BC.203(44歳):カルタゴ本国はハンニバルを本土に帰還するように命令。
BC.202-(45歳):ザマの戦いでスキピオに敗北

BC201(46歳):カルタゴとローマは和議を結び、第二次ポエニ戦争は終わる。
BC195(52歳):ハンニバルは行政長官になり国内整備に取りかかるが、ローマ攻撃の密告でセレウコス朝シリアのアンティオコス三世のもとへ逃れる。

BC190(57歳):ハンニバルはローマ・シリア戦争でシリア軍の参謀の一人となり、エウリュメドン川の戦いでシリア艦隊を指揮しローマと戦うが敗戦。クレタ島に逃れる。
BC183(64歳):小アジア北部のビテュニアBithynia(ビシニア/ビチニア・・・マルモラ海、ボスポラス海峡、黒海に接する小アジアの古代の地域)のプルシアス王の元に逃れたが、ローマの手がまわり、ハンニバルは自分の指輪に隠した毒で自殺。

 ○https://ja.wikipedia.org/【wiki/ハンニバル】


BC.149-146 第三次ポエニ戦争:またも奇跡的に復興したカルタゴを驚異と感じたローマにより殲滅戦争を仕掛けられ、3年で陥落。徹底的に破壊・焼却される。


●ハンニバルが通過したと推定されているルート一覧。地図の北から列記してあります。
<左の地図をクリックすると、前のポイント(峠を下ってきたルート)に戻ります>
 ●「P.St.Bernard小サン・ベルナルド峠を下る」


 ●「MontCenisモンスニ峠を下る」


 ●「Crappiereクラピエ峠を下る(想定)」


 ●「Montgenevreモンジュネーヴル峠を下る」


 ●「Traversetteトラヴェルセッテ峠を下る(想定)」


 ●「Agnelアニュエル峠を下る」


 ●「Larchラルシュ峠を下る」








































  ALPS-PASS-MAP

   【●ハンニバルの有力推定ルート

・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いしますハンニバル応援

参考資料:
 この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本は以下のものである。
 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page)
 ・John Prevasジョン・プレヴァス『HANNIBAL CROSSES THE ALPS ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫訳:白水社(J-page)
 ・Hans Baumannハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
 ・The Green Guide:『French Alps』2001 Michelin:(M-page)
参考URL:
 ・げき℃の世界史/ げき℃ →スペイン→こんな国→歴史知識
 ・戦術の世界史(メタウルス川とハスドルバル)  ・古代ギリシャの通貨(ビシニア)
 ・地中海紀行
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<峠をイタリア側からいくつか見るため、Sestriereセストリエレ峠 〜 Montgenevreモンジュネーヴル峠 にむかいます・・・・・>
●ご意見・お問い合わせ・情報・何でも・・・「峠の茶屋・掲示板」でお待ちしています。
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