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Septimerpass ゼプティマー峠/セッティモ峠/Pass da Settセット峠


No.:総合順位
  (-N:追加)
登山峠 n017-2

●赤は大分水嶺
拡大1:1/20万から】【拡大2:1/10万から
分水嶺と峠の関係
【分水嶺と峠(Septimerpass/PassLunghin/MalojaPass)の関係図】

Google-Mapで2009年のルートを見る
Hight(m):標高 2310m
Alpenpasse:峠名
Valley/Tal:谷名・地名
Septimer passゼプティマー峠/セッティモ峠
Pass da Settセット峠
Country:国>県>谷> Ch:スイス
Route-no,
Place:場所
(Motorway=高速:Tunnel=トンネル)
(Map-page-address:*1)
●大分水嶺:
南=〜Meraメラ川〜Poポー川〜(地中海:Adriaアドリア)。北=〜Gelgiaゲルギア川〜Rheinライン川〜(北海:North-Sea)

・Ch:ユリア峠の南西10km
(51-Kd70)

Via MalaJulier
LunghinMaloja
SplugenJuf
 
Closed/Maximum grade(%)/etc :
道路閉鎖時期/勾配/条件
山岳峠(現在、自動車道路はない)
Impressions:感想:
峠両側の集落・歴史的役割
  ・成立要因推測など


Septimer

ゼプティマー峠
【ゼプティマー峠の聖コロンバーノ碑】

・古代ローマ時代より以前から、エトルリア人などの通行があった。峠から古いコインが見つかった。(H.シュライバー:古代ローマへの道p202)。この峠はアルプスを直接南北に通過でするのに良好な地形で、便利な場所だったためである。

・紀元前3世紀初め、ローマ帝国は現在のスイス・イタリア語圏ティチーノ州南部にあたる地域を征服した。ローマ軍は紀元前1世紀の間に繰り返しアルプス山脈に進軍している。セプティマー峠にローマ軍の駐屯地がある。ここで出土していた硬貨や投石弾などは、ユリア渓谷における戦いの時代を特定する重要な手がかりとなった。同駐屯地は、渓谷をさらに下ってスアネテス人と戦う前にローマ兵が最後に立ち寄った場所と考えられている。ティーフェンカステルとクンターの間にあるクラップ・セス峡谷付近の丘で、ローマ第3軍団、第10軍団、第12軍団の3つの軍団からなる2千人の強力な部隊が地元の兵士500〜1千人と衝突したと考えられる。<www.swissinfo.ch 2024年><www.swissinfo.ch 2021年

アウグストゥスが初代ローマ皇帝(BC27-AD14年)の時代、軍の野営地が峠付近で発掘された。アルプスの北を管理するための重要な場所であった。

古代ローマ時代の道も、この峠を通過するように作られた。

・614年、聖人コロンバーノSt Colombano【●峠の聖人】がこの峠を通過した。

 ・「Sett」・・Sent Strada dal Settimo/Pass da Setto / Septimerpass は、St.Colombano 聖コロンバーノ/聖コルンバヌス/聖コルンバからきているのではないだろうか。<⇒検討

 ・中世のスイスアルプス越え(東側)の交通路(右図参照)は、「ゼプティマー峠」 または 「ユーリア峠マロヤ峠の2峠」 を通る<上の道Obere Strasse>と、「シュプリューゲン峠」を通過する<下の道Untere Strasse>の2つが中心だった。

 ・このうち<上の道>のほうが容易(細く厳しい道が少ない)で、さらにその中でも「ユーリア峠+マロヤ峠」の2峠を通過するルートより、「ゼプティマー峠」ひとつを行くほうが、徒歩で3時間も短かかったため断然人気があった。

 ・クールの方からゼプティマー峠に向かうには、Bivioビーヴォ村で「ユーリア峠+マロヤ峠」への道と分かれ南に向かう。ゼプティマー峠を越えるとCasacciaカサッチア村で「マロヤ峠」からの道に合流し、Bregagliaブレガリアの谷につながる。

 ・西のJufユーフ村からForcellina峠(2672m)を経由し、この峠に到達するルートもあり、南下することもできた。しかし高い峠を通過する必要があり困難な道だった。

 ・クールからキアヴェンナの間のSeptimer街道は、クール司教の所持・管理下にあって、その通行税の売上は、権力の大きな基盤となっていた。

・7世紀ごろ:峠の上にホスピス(ローマ巡礼のための)が建てられた。(831年:ルートヴィッヒ西ローマ皇帝(在814-840)の記録文書に残っている)

・940-41年にかけての冬に、臨月まじかのイヴレア辺境伯ベレンガーリョ2世(イタリア王950-963)の妃ウィラがこの峠を越えた。

・951年:サラセン人が峠上のホスピスを破壊した。
・961年:Otto der Grosseオットー1世(大帝)が峠を越え、ホスピスの廃墟を見ている。<東フランク国王(在位936-973)。教皇に帝冠を要求したが拒否される。第一回イタリア遠征(951)→第二回イタリア遠征(961年)→ローマで教皇ヨハネス12世により戴冠、ローマ皇帝になる(在位:962〜973)=神聖ローマ帝国の始まり>

・1100年頃:ホスピスHospiz(Tgesa da Sett)と礼拝堂が峠の上にで作られた。

・1164年:Friedrich Barbarossaフリードリヒ1世(赤髭王)の峠越え:軍によるミラノの破壊(1162)。レニャーノの戦いでロンバルディア都市同盟軍に敗北。教皇アレクサンドル3世と和解(1176)。

・中世半ばには、東のブレンナー峠(1374m)、西のグランサンベルナール峠(2473m)とともに、3つの中心的なアルプス越えの峠ルートで、商人ばかり出なく、国王や皇帝、その軍隊も数多く移動した。
・ドイツの王、神聖ローマ皇帝は、家来や軍隊をひきいて何度もこの峠を利用した。

・1473年:Via Malaヴィア・マラ峡谷の険しい峡谷に石造りの橋が建設された。これにより「下の道低=Splugenpass峠経由」の通行量が増え、「上の道=Septimer峠経由」の重要性が落ち、ラバ運送などのインフラの維持管理が下落していった。

・中世後期、この街道は森林などの皆伐などで、落石や雪崩の危険性が増加した。特に高山の冬・雪中の山越えは恐ろしいかったので、並行して輸送できる「ユリア峠マロヤ峠」の安全なルートにシフトしていった。

・1812年のシュプリューゲン峠の整備、1818年頃にJulierユーリア峠、1818-1823年マローヤ峠が整備され、さらに1821-1823年サン・ベルナルディーノ峠の大幅改造で、古い歴史を持つこの峠は完全にすたれてしまったのです。

http://de.wikipedia.org/【wiki:Septimer】
http://www.hls-dhs-dss.ch/【Settimo, passo del】
http://www.hls-dhs-dss.ch/【Oberhalbstein】
http://skatingland.myswitzerland.com/
http://wanderland.myswitzerland.com/【hiking/trekking:Thusis-Septimer-Chavenna】

<通過日:YYYY.MM.DD(Site)。旅の記録・写真へのLINK>
2009.6.18(V-Site):紀行

【ゼプティマー峠の標識】【昔の街道の石畳】

【ゼプティマー峠から東、南を見る】

【ゼプティマー峠から南に下る方向を見る】

−−−−−−−−
<南側/東側からの望遠>
2001.7.1(N-Site):紀行

【Casacciaカサッチャの村からの望遠、左方向】
2001.7.1(N-Site):紀行

【マロヤ峠からの望遠】
2009.6.17(V-Site):紀行

【マロヤ峠からの望遠】
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