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Ville Vieille/Aiguilles
 ヴィル・ヴィエイユ/エギーユ(エギュイーユ)
 ・・・『アルプス登攀記』のウィンパー・・・が

ハンニバルの進軍状況  この村の「ハンニバルと象」、そして「自然の石柱」について紹介しています。
フランス:(05)オート・アルプ県】 [北村 峠一].(Kitamura)     



 8月14日の晩には、私はサンヴランの村にいた。・・・

 翌日私は谷を下ってヴィル・ヴィエイユに向かった。谷の向う岸にあるモリーヌの村の近くで、素晴しい自然の石柱を見た。その柱の形はシャンペンの瓶とよく似ており、高さは70フィートもあった。これは風雨の作用によってできたものだが、おそらくは主として雨の作用によってできたものであろうと思われる。

これは「斑レイ岩または異剥石のかたまりが崩れやすい石灰岩を保護している」(J・D・フォーブスの本による)例である。上に載っている黒ずんだ岩と、その下にある白い岩の柱の対照と、全体の形の特異さとが奇抜な見ものとなっている。

これらの自然の柱こそは、長い歳月にわたって黙々と働きつづける自然の力によって、どんな結果が作り出されるかを示す最も著しい実例なのである。
このような例はアルプスの他の地方だけでなく、世界のほかの場所でも眼にすることができる。

 ヴィル・ヴィエイユの村では、「象」という看板を掲げた旅館が有名になっている。土地の郷土史家たちの意見によれば、ここに「象」の絵が看板として残っているのは、ハンニバルがギルの渓谷を通った証拠だというのである。・・・

  『アルプス登攀記』ウィンパー著、浦松佐美太郎訳、岩波文庫(1936.5) 上:p83-


 素晴しい文章に圧倒されます。自然の石柱の説明、そして彼自身の詳細な挿絵。こうやって絵を描くように記述していくことで深みのある文になっているのでしょう。

 1861年8月はじめ、エドワード・ウィンパーはエクラン山系のMont-Pelvouxモン・ペルヴー(3946m)に登攀したあと、Mt.Visoモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)(3841m)の初登攀に挑戦しますが、失敗します。(その2週間後、イギリス人のマシュウズとジェーコムが、シャモニーの山案内クロー兄弟を連れて初登攀に成功したのです。)

 彼はそのあと、8月14日にSt.Veranサンヴランの村、8月15日にVille Vieilleヴィル・ヴィエイユの村で食事をし、Izoardイゾアール峠を通過して、ブリアンソンに向かっています。

 Ville Vieilleヴィル・ヴィエイユの村について、彼は「ハンニバルと象」のことに触れています。このことは今回の旅の記事をまとめる上でも嬉しくなります。当時も峠探しは皆さんの興味の的だったのですね。この村はサン・ヴランの村や、Agnelアニュエル峠への分岐の村です。

 僕たちもこの村の、北や南の道を5回通過し、ガソリンスタンドで給油もました。 が、車社会の今、ほとんどが通過するばかり、人家も少なく、観光ガイド・Webなどでも象の看板の宿の情報を見つけることはできませんでした。


chateau-abries-map
【Chateau-Queyras〜Ville Vieille〜Aiguilles〜Abriesと、St.Veran〜Izoard峠のルート】
   
【マッターホルンの初登頂者:ウィンパー】  【アルプス登攀記へのウィンパー自身の挿絵】  【La Demoiselle Coiffee自然の石柱】


【55.jpg:南東のSt.Veran方面と、さらに遠方にTete de Longet(3151m)方面の山】  (→サン・ヴェランへ直接行く場合はこちら

−−−−−


Aiguillesエギーユの村の道R947号線は、ギル川にそった低いところをバイパスしていますが、村の中に入ってみると、役場や水のみ場のある広場には、石造りのカラフルな建物、日時計など、趣のある旧い町並みがありました。


【39.jpg:Aiguillesの旧い町並み】

−−−−

さらに東に進んだあたりから、今来た西の方角を見ると、あの襲撃のあったケーラス渓谷の北にある2900-2400mの岩山が見えます。あれだけ険しい山が張り出しているのですから、ギル川(海抜1100-1300m)が作った10km以上も続くケーラス渓谷の長さが理解できます。


【130.jpg:Aiguilles〜Abries間でQueyras渓谷方面を見る。】


【149.jpg:Queyras渓谷の北に位置する岩山。右のピークは、Pic du Beal Traversier(2912m)】

【2000/11/07:romeosierraさん情報提供】
・エドワード・ウィンパーの『アルプス登攀記』で、彼はMt.Visoに登る為にこの辺りを歩きまわっていて、同書にはCol de la Traversetteも、アルプスで一番高い村St.Veranも出てきます。その峠はイタリア/フランス間のルートとして当時(1860年頃)はかなりポピュラーだったと解釈できます。
・同書によると、手前の分岐の村Ville-Vielleには『象:elephant』というはたごがあり、土地ではこの名前こそ、ここを象が通った、すなわちハンニバルが通った何よりの証拠、とされているそうです。私もこの9月にVille-Vielleには行ったのですが、はたご『象荘』の存在は確認できませんでした。


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Elephants

●「ハンニバルと象」がこの地(推定)を進軍した状況など

 −− ポリビオス(BC200-BC118)の記述による。「」は推定の地名 −−
 ●前のポイント「Chateau-Queyras城塞」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】 →●最有力ポイント「Abries」 / ○可能性ポイント「St-Veran」




【ハンニバルの行軍推定ルート(緑実線)】



より大きな地図で 2002Travel-Root-Point を表示
<ここまでの経緯>
 約4.5カ月前スペインを出たカルタゴの軍は、「ローヌ川〜ドローム川〜デュランス川〜ギル」川をさかのぼる。案内人の計略で、「ケーラス」渓谷で崖の上から岩による大襲撃をされ、歩兵6千、騎兵7百、象6頭と今までにない多大の死者・けが人を出す。

<この地のハンニバル軍>
 「シャトー・ケーラス」に野営し軍を集合しなおし、体制を立て直した軍は、背後の族に対し反撃するのではなく、イタリア・ローマという敵に向かって紀元前218年10月18日朝出発する。「ギル」川の谷をさかのぼる。

 アルプスの登り道から8日目。イタリア国境の峠越えまで残り7日。
軍の規模は、歩兵2.9万人、騎兵6.9千騎、象20頭。

 ●前のポイント「Chateau-Queyras城塞」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】 →●最有力ポイント「Abries」
  

注:(ここからSt-Veranサン・ヴェラン付近を経て、アニュエル峠越えを推定している説もあります)
  

・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いしますハンニバル応援

参考資料:
 この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本は以下のものがある。
 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page)
 ・John Prevasジョン・プレヴァス『HANNIBAL CROSSES THE ALPS ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫訳:白水社(J-page)
 ・Hans Baumannハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
 ・The Green Guide:『French Alps』2001 Michelin:(M-page)
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<アブリエスの村に向かいます・・・・>
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