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Beaucaireボーケール〜Tarasconタラスコン

この地を進軍した状況ハンニバルは?

 ローヌ渡河:「怪物タラスクス」は、「ハンニバル軍数万など」が、ここを渡河したから?・・

   【 フランス:オクシタニア地方(Gardガード(30)県)〜 PAコート・ダジュール地方(Bouches-du-Rhoneブーシュ=デュ=ローヌ(13)県)
  [北村 峠一].(Kitamura)      


【ハンニバルのローヌ渡河と怪物タラスクス】
2019/6/17(月):
 St.Gillesサン・ジルから、ローヌ川が削った段丘、その河口の平原を北上、Beaucaireボーケールの表示が出てきました。

【Beaucaireボーケールに向かって】

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●三角形のゴシック様式礼拝堂 ・・


道路沿いに、3角形をした凱旋門のような遺跡を発見。車を止めます。


【前方に遺跡が・・】

L'oratoire de la Croix Couverte L'oratoire de la Croix Couverte
【L'oratoire de la Croix Couverte】

●L'oratoire de la Croix Couverte十字架用台のある三角形のゴシック様式の礼拝堂


・フランスの歴史的建造物に登録:14世紀末建造
・十字架の土台のある三角形のゴシック様式の礼拝堂
・20世紀初頭にはUradou(大浦堂/天主堂)と呼ばれていたが、1960年代には十字架の土台が取り外されていた。
・ボーケールの考古学博物館に寄贈した人は、Jean de Franceジャン・ド・フランス、Duke of Berry and his wifeベリー公と彼の妻、Jean d'armagnacジャン・ダルマニャック。
・彼はラングドックの王の副官である公爵は、1384年から1386年の間にボーケールに3年間住んでいた。
・伝説によると、華やかなスタイルの礼拝堂は、Tunisチュニスで亡くなったSaint Louisセントルイスの遺体の一時的な保管場所を記念して、より謙虚な建物の敷地に建てられた。
・三角形の平面上に隆起した3つの面で構成されており、それぞれに開口部があり、中央に十字架が立ち上がるアーチ型の空間を囲んでいる。透かし彫りの欄干が建物の頂上にある。
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https://www.waymarking.com/
https://www.geocaching.com/
https://www.pop.culture.gouv.fr/

14世紀末建造の歴史的建造物のようです。

L'oratoire de la Croix Couverte
【L'oratoire de la Croix Couverte】

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●Beaucaireボーケール・・


ローヌ川から水路を引き込んで運河となった港町・・プレジャーボートがびっしりと係留されています。
この周辺の船着き場が町の中心のようです。
Beaucaire Beaucaire
【Beaucaireボーケール】       【プレジャーボートがびっしりと係留されている】

Beaucaire
【Beaucaireボーケール:港/船着き場が町の中心。ローヌから水路を引き込んで運河となった港町】


【西岸のボーケールと、東岸のタラスコンの航空写真】

●Beaucaireボーケール


・ローヌ河の西岸の町。東岸のタラスコンと対で、紀元前7世紀頃に街ができた。イタリア=スペイン間をつなぐドミティア街道の中継町(イタリア方向、ニーム、ルムーラン、サンジル方向の分岐点)であった。

・古代の名はUgernumウゲルナムと呼ばれた。
・Beaucaire『美しい石/城』を意味する。
・ボーケールはかつては重要な河川港であった。

https://fr.wikipedia.org/【ボーケール (ガール県)】
https://europeupclose.com/【職人の村、歴史と闘牛】


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そして長いローヌ河の橋を渡ると・・オクシタニア地方(Gardガード(30)県)から、プロヴァンス・アルプ・コート・ダジュール地方(Bouches-du-Rhoneブーシュ=デュ=ローヌ(13)県)に入ります。

●Tarasconタラスコン・・


●Tarasconタラスコン


・ローヌ河の東岸の町。西のボーケールと対で、かつてイタリア=スペイン間をつなぐドミティア街道の中継町であり、スペイン、アヴィニョン、リュベロン、アルル、カマルグ方向の分岐点であった。

・現在のタラスコンの町は、古代はネルルクまたは「黒い場所/森」と呼ばれていた)

・対岸のボーケールの町とは地域圏も県も異なるが、流通面ではさながら一つの町のように機能してたが、古くから土地と水利を巡って争いが絶えなかった歴史がある。
・現在もタラスコン市のローヌ川岸すべては、ボーケール市の領域で、港/船着き場はボーケール市側がほとんど。

https://ja.wikipedia.org/【wiki/タラスコン】
プロヴァンスを巡ろう13:タラスコンとボーケール


正面に大きな城と教会が見えてきます。タラスコン城と、聖マルタ教会です。

Beaucaire
【タラスコン城と、聖マルタ教会】

タラスコン城に入り、屋上からローヌ川を観察します。


【タラスコン城(ルネ王の城:1447年に完成)】


【城の西側:ローヌ川の川幅は中州を含め約500mほど。対岸右手の丘がボーケール城(12世紀建造)


【城の東側:聖マルタ教会(聖マルタを埋葬)】


【タラスク祭典(2019年は6月30日:日曜日)に用いる山車】 【城内展示のタラスクの絵・彫刻】


【来週末の祭りに向けての練習中風景】

●Tarasque/Tarasconus怪物タラスク、Sainte Marthe聖マルタ


・紀元前からタラスクコンがある辺り(ネルルク(黒い森)=アルルとアヴィニョンの間のローヌ川の森)林に覆われた土手を住処に、ローヌ河畔で活動したと伝えられるタラスクは、龍に複数の動物のイメージを組み合わせて表現された恐ろしい姿が印象的。水陸両生で獰猛な性格を持ち、人々に恐怖を与えてきた。

・毒の息を吐き、炎に包まれた糞(ラテン語:stercus)を撒き散らし、船や旅人を襲い、人間を喰らった。

・タラスクは、考古・民俗学的には、紀元前2世紀から紀元前1世紀頃にかけて当地に定住した民族、ケルト・リグリア人が生んだ土着の怪物に由来するものと考えられている。タラスコンのみならず、プロヴァンス地方にその姿が点在する。

・タラスクのかつての棲み処は遠くオリエントのシリアで、海の巨怪レヴィアタンと牛様の怪物ボナコンとの間に生まれたものとされる。

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・西暦48年、キリスト教布教のためにサント=マリー=ド=ラ=メールからやってきた聖マルタ (仏: Sainte Marthe/マリアの姉マルタ/ベタニアのマルタ) は当地を訪れ、怪物タラスクと対峙し、祈りと聖水でドラゴンを帯紐でつなぎ、飼い犬のようになつかせた。村人たちはこのタラスクを殺し、キリスト教に改宗した。

・タラスコンのタラスクフェスティバルFete de la Tarasque(毎年6月最終土曜日)はユネスコ文化遺産に2008年に登録された。

・スペインでも同様の怪物Tarasca/Tarasque:タラスク/タラスカの伝説と祭りがある。

https://en.wikipedia.org/【wiki/Tarasque】
怪物タラスク【wiki】
https://ameblo.jp/【南仏プロヴァンスのタラスコンに伝わる怪物タラスクの伝説とは!?】
聖マルタ・タラスコン王立大学教会【Sainte Marthe】
聖マルタの墓(フランス)
本:「ローヌ河歴史紀行」笹本駿二著、岩波新書
本:「フランスの祭りと暦」マリ・フランス・グースカン著、原書房

●Beaucaireボーケール〜Tarasconタラスコン の橋とダム

pont-beaucaire-tarascon
●ジグザグの舟橋
・2021.3.25:フランス5:考古学者リュック・ロングが、アルル近郊のローヌ川で行った発掘調査に関するドキュメンタリーを放送した。

・ローヌ川のここに、古代の考古学的な宝物を隠してい可能性がある。
・過去に、何世紀にもわたって、ローヌ川のこの付近はボート、フェリー、橋のいずれかで横断できた。
・フェリーは水路を横断するケーブルを必要とし、このケーブルにボートのマストが当たり転覆した例がいくつかあった。
・17世紀に両岸の間に舟橋が架けられた。この橋はジグザグのレイアウトで、直角に2つの曲がりがあり、ガードレールが無かった。危険な橋のため、何台ものカートや馬車などが川に落ちた。
・これらの船、馬車、貨物、木材、遺体などの残骸が水中で保存され沖積層に埋もれている可能性がある。

https://www.midilibre.fr/【ボーケールとタラスコンの間のローヌ川発掘】


・17世紀当時、ローヌ川のこの場所には今のようなコンテ島(中洲)はなかった。
  以降の治水・運河作りで今ある中洲は作られた。


vallabregues-dam ・ジグザグの橋は、深い箇所は舟橋、浅い箇所は木橋、 の組み合わせで作られている。

・大量の船がボーケール川側に係留されている。


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●Le barrage de Vallabreguesヴァラブレーグダムと水深
・ローヌ川のボーケール〜タラスコンの数km上流、ガルドン川が合流する地点に、ダムを作り発電(1970年完成。13億kWh/年)。
・運搬の船は、運河形式で水位を克服している。
・ボーケール/タラスコン間のローヌ川の水深は、max3.5m〜min1.5m

https://fr.wikipedia.org/【wiki/ヴァラブレーグダム】
https://www.objectifgard.com/【le-barrage-de-vallabregues】
https://www.vigicrues.gouv.fr/【】

<⇒ローヌ川をさかのぼる:アヴィニョンAvignon〜Eygues/Aigues/エーグ川〜・・ >

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【茶色:ローヌ川渡河・関連のハンニバル軍推定ルート】
Elephants

●「ハンニバルと象」が、この地を進軍した状況など(推定-002)






●カルタゴの将軍ハンニバルと象が越えた峠
●有力推定ルートのIndex


 ・前のポイント=01:ハンニバルの生誕〜カルタゴ・ノヴァ/カタルヘナ〜進軍〜フランス南部(サン・ジル付近)
  ↑↑
★このページ=02:「ローヌ川を渡る」(Beaucaireボーケール〜Tarasconタラスコン説)、「渡河戦」(タラスコン付近)
  ↓↓
 ・次のポイント=003:「ハンノの分遣隊ルート」(アヴィニョン付近)


【ハンノの分遣隊が上流約40kmの中州を渡り、渡河時に対岸のケルト人部族ウォルカエ族を襲った。】

<「ローヌ川を渡る」+「ローヌ渡河戦」>


<この地に到達時のハンニバル軍の状況>
・BC218年9月23日頃ローヌ川の渡河地点に到着。(イタリア国境の主峠着の、プレアデス星雲の入が近い=10/末から逆算(G-p127)
・軍の規模は、歩兵3.8万人、騎兵8千騎、象37頭(G-p49)<or39頭(H-p150)説もある>。
・さらにその軍の荷物(食料・テント・衣類など)を運ぶための「駄獣だじゅう=馬/ロバ/牛など」も必須で、それを引き連れる民間人も必要。ピレネー越え時の解説に「駄獣約1万頭」とある。(net)

Polybiusポリュビオスなどの歴史記録>

・ピレネー山脈を越え約4カ月で5,800スタディア(1,220km)進軍し、ローヌ川に到達。(P-p296)(G-p48)
・ローヌ川を渡ったのは「流れが一本のところ、その地点が川幅が広く、水深が浅く、流れもあまり速くなかった」「海から歩いて4日の距離」。(P-p296)
・ローヌ川西岸で3日間準備した(*1)。(P-p296)
*1:その間、軍の規模に必要な多数の船、イカダ材料を調達した。(P-p296)
*1:その間、行政長官ボミルカルの息子のハンノを分遣隊とし、上流約40kmの中洲を渡り、軍の渡河時に敵のケルト人部族ウォルカエ族を襲う準備をした。(P-p297)

<ローヌ川の渡河地点はどこ?>

●ローヌ渡河地点:Beaucaireボーケール〜Tarasconタラスコン間説
 ・ローヌ川を渡った地点は川が1本、幅800m、浅い緩い。
  ⇒ケンブリッジの匿名著者(1830年)+H・L・ロング(1831年)+R・エリス(1835年)+T・モンタナーリ(1890年)+C・トール(1925年)説。(G-p135-138)
以下の理由から、ボーケール〜タラスコン間が最有力と考えます。

★距離が一致:Aigues-Mortesエーグ・モルト付近で海から離れたであろうから約56km(4日x80スタディア=約14km/日)
   ⇒フルケ〜ボーケール付近(直線で約45km)。(G-p48-52-60)

★流れが一本、川幅が広い、水深が浅い:
 ⇒当時、中州はなく、幅約500mの流れで、浅瀬だった。(17Cの銅版画などから)

★大量の船が調達可能:6.4万の兵(歩兵3.8万人、騎兵8千+馬8千頭、象37頭、駄獣約1万頭)を、2日間で対岸に渡すには、大量の船が調達できる地点でなければならない。仮に船が1時間で川を往復できたとして、2日間x12時間(9月末で暗くなるのが早い)で、大小の船平均10人乗りなら260艘以上の確保が必要でありろう。
  ⇒ここボーケール〜タラスコンは、紀元前7世紀頃からイタリア=スペイン間をつなぐドミティア街道の中継町。かつ重要な河川港であったから、船などの調達も他の地点より容易だったはず。

★タラスコンの恐ろしい怪獣伝説が、数万の兵と象の軍団と想定できること:
 恐ろしい噂が突然流れて来て、村人全員が離れた山に何も持たずに逃げます。数日後帰ってくると、家・家畜・畑など全てのものが略奪され荒らされていたのです。

 ⇒その噂とは・・幾度か、「象を引き連れた、数万の大集団軍が、行先周辺の村落を略奪・殺略しながら移動していく様」と一致します。さらに同様な伝説は、タラスコン以外にも周辺(プロヴァンス)でも言い伝えられています。

  ・突然現れ去っていく怪物とは・・軍の隊列が長さ8-9km、幅800m以上にもなっており、途上の村落では、役立つ物、収穫物はすべて収奪し、強盗、殺略など、まるでだったはず。
  ・炎に包まれた糞を撒き散らす。=数万の人と動物が荒らした跡には大量の糞・ゴミ・死体などが残った。(J-p102)・・6.5万の人畜なら糞約20トン/日+尿60トン/日以上
  ・毒の息を吐き・・=見たことのない動物、ゾウの叫び声(パオーンと咆哮:迫力ある大きな声+)約2万の馬・駄獣の鳴き声
  ・タラスクのかつての棲み処は遠くオリエントのシリア・・=ハンニバル軍のなかで一番勇敢だったのは、シリア人を意味するスルスSurusというアジア象
  ・船や旅人を襲い、人間を喰らった・・=収奪、強盗、殺略、惨殺など

★幾度も出現した怪獣が、聖マルタ以降、出なくなった事:
  ・BC218年:ポエニ戦争(第2次):ハンニバル=バルカとその軍の渡河
  ・BC207年:(同):ハンニバルの弟ハスドルバル=バルカとその軍の渡河
  ・ -BC193年:ローマ・ガリア戦争:ローマ兵の一部は、行き・帰りに村落を荒らしたはず。
  ・BC181-133年:ヒスパニア征服:(ケルティベリア戦争)
  ・BC :この間もピレネー方面への遠征があった。
  ・BC58-51年:ローマの将軍カエサルがガリアに行った遠征・・ガリア平定以降はローマ軍の遠征はない。
  ・AD48年:聖マルタがサント・マリー・ド・ラ・メールから布教にタラスコンに来て退治した=以降、この怪物は現れなくなった。

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  参考:⇒⇒渡河の場所については、過去多数の推定ポイントがありますが・・
  ・Furquesフルケ〜Arlesアルル(ギャヴィン・デ・ビーア説p49など)
  ・Beaucaireボーケール〜Tarasconタラスコン(トラベルセッテ峠説/小サンベルナール峠説など)
  ・Roquemaureロケモール(ナポレオン説など)
  ・Laudun-L'ardoiseラルドワーズ(クラピエ峠説)   ・Pont-St-Espritポン・サン・エスプリ(クラピエ峠説)
  ・Bourg-Sant-Andeolブール・サン・タンディオル
  ・LoriolRoquemaureリヨール(大サンベルナール説)
    以降の紀行でも、ローヌ川を遡りながら観察します・・


<ローヌ渡河の状況+渡河戦:Battle of Rhone crossing>

・危険でリスクが高い作戦の準備のためにハンニバルは3日間を費やし、残存リスクを最小限にしてから行動を起こした。ハンニバルの軍は渡河用の大量の舟・イカダ材などを調達・確保した。

ガリア人の一部族ヴォルカエ族Volcae(親ローマのガリアの部族連合)は、マッシリア(現在のマルセイユ)にあったローマ軍の一部として行動しており、カルタゴ軍の渡河とイタリアへの進入を阻止するためローヌ川東岸に野営していた。

・カルタゴ軍のハンノが率いる分遣隊は、ガリア人の案内を連れてローヌ川を北上し、ヴォルカエ族の背後を襲撃する作戦。ハンノは約25マイル(約40km)上流の付近で中州で渡河し対岸を南進。

・この間にハンニバルはローヌ川渡河の準備を完了した。この渡河準備は敵の注意を引き付けるため騒々しく行われた。(P-p296)
・ハンノの分遣隊がその到着をハンニバルにのろしで知らせた。
・これを受けてハンニバルは直ちに、既存の船、丸木船で兵をローヌ川渡河を命じた。(P-p298)。(G-p49)。
・ハンノの分遣隊は、渡河開始と同時にヴォルカエ軍の背後に攻撃を開始した。一部のヴォルカエ軍は野営地に引き返したが、多くは前後の敵と戦うことになり、やがてヴォルカエ軍は粉砕された。ほとんどのカルタゴ軍がその日のうちに渡河を終えた。(P-p298)

・イタリア側からアルプスを越えてきたガリアの首長らとともに、部下を奮起させた。(P-p300)

【ヌミディアとローマの騎兵(byNet)】

・本隊が川を渡った後、ハンニバル軍のヌミディア人騎兵500人を斥候に出すが、ローマ軍のスキピオの騎兵隊と遭遇し、ローマ軍140人、ヌミディア人に200人以上の死者を出した。(ローマが討伐のためスキピオを派遣し、マッシリアから送り出した隊)。(P-p300)(J-p107)。

・ヌミディア人騎兵からのローマ軍との戦の状況を知ると、全騎兵を警戒にあたらせ、ハンニバルは本隊を戦闘を選ばず北の方向アルプスに向かわせ、象・駄獣・荷物の渡河を命令。

・象はいかだをつなぎ合わせ、乗せ、ローヌ川を対岸に渡る(P-p302)。(G-p49)。

渡河:18世紀の銅版画 Hannibal crosses the Rhone, 1878
【ローヌの渡河:18世紀の銅版画】 【Hannibal crosses the Rhone,Henri-Paul Motte, 1878】

2日間で渡河は完了し、直ちにローヌ川に沿って北上した。(P-p302)。

・この戦闘はハンニバルがイベリア半島を出てから最初の大規模戦闘であった。ローマ軍との直接対決ではなかったものの、カルタゴ軍の勝利はこの戦争に大きな影響を及ぼした。


<関連URL>
Polybiusポリュビオス【ハンニバル戦争終結60年後、スペインから、フランスアルプス、イタリア平野部まで実際のルートを踏破・目撃者に面談・記録した】
https://ja.wikipedia.org/【ローヌ渡河戦】
https://en.wikipedia.org/wiki/【Battle_of_Rhone_Crossing】
http://ancient-battles.com/【Numidianヌミディア騎兵】
https://ja.wikipedia.org/wiki/【ヌミディア/ Numidia】
ガリア戦争
「ガリア戦記」カエサル(シーザー)
ケルト人虐殺【古代ガリアに住んでいた人々のうち、100万人が虐殺され、さらに100万人が奴隷に】
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■参考資料:
本:Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア著 『ハンニバルの象 ALPS and ELEPHANTS』時任生子訳:博品社(G-page)
本:John Prevasジョン・プレヴァス著『ハンニバル アルプス越えの謎を解く HANNIBAL CROSSES THE ALPS』村上温夫訳:白水社(J-page)
本:Hans Baumannハンス・バウマン著『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
本:Polybiusポリュビオス著 『ポリュビオス 歴史〈1〉』城江良和訳:京都大学学術出版会(P-page)


 ・次のポイント=003:「ハンノの分遣隊ルート」(アヴィニョン付近)

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