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ピアーナ山の第一次大戦前の眺めはもっと険しかった?
【想像図:第一次大戦前、峠からのピアーナ山の眺めは、もっとごつごつしていた?】

S.Angeloサン・アンジェロ峠(1757m)
 三叉路の峠から見る頂上の平らなピアーナ山、第一次大戦前はもっとゴツゴツしていたのでは??【●峠のDBへ

 塹壕、大砲、地雷・・・オーストリア領チロル国境との壮絶な戦いは、ドロミテのあちこちの山の頂上を吹き飛ばしたようです。そして残された民族問題・・・
[北村 峠一].(eu-alps)      


 Misurinaミズリーナ湖(1750m)の北側を約200m、高度差約7mを登るとCol-S.Angeloサン・アンジェロ峠(1757m)にもう到着です。【●峠のDBへ
s-angelo サン・アンジェロ峠
【03.jpg:ミズリーナ湖から標高差7m、約200mの坂を登ると】 【湖と峠は約200m】

 ここは珍しい三叉路の峠、ここから右に登っていく道が3つの奇岩の山、Tre-Cime-di-Lavaredoトレチメ・ディ・ラヴァレード(イタリア語名)/Drei-Zinnenドライ・チネン(ドイツ語名)への入口です。

 そして、じっくりこの峠周囲の風景(↓)を観察してください。

    わかりましたか??
s-angelo
【10.jpg:峠は3差路、右にがトレチメに向かう道。正面の頂上の平らな山が、Monte-Pianaピアーナ山(2324m)】
<●第一次大戦と南チロル/トレンティノ戦線>

第一次大戦のトレンチーノ戦線  イタリア・アルプスの戦線
  【左:第一次大戦のトレンチーノ戦線(ポカレット戦線も参考に)。右:イタリア・アルプスの戦線】

・第一次大戦でのイタリアアルプスでの戦争では、標高3000mもの山上の陣地に大砲を運ぶというような苦労が強いられた。(出典『20世紀の歴史-13』p100)
・Monte Pianaピアーナ山は第一次大戦で会戦の舞台となった山(出典『イタリア旅行協会』p180など)

・地雷戦、塹壕戦・・山の破壊:(1915-18)
 1916.4.17オーストリア軍がリヴィナッロンゴのラーナ峠頂上を爆薬で吹き飛ばし、山の景観が変わった。
 1916.7.11イタリア軍がファルツァレーゴ峠近くの山の先を吹き飛ばす。
 1916.9.23オーストリア軍が地雷でドロミテ・チモーネ山を粉砕、1200人のイタリア軍人が死亡。(出典:『イタリア旅行協会・・』p38など)

<書籍>
『第1次世界大戦 20世紀の歴史(13)』JMウィンター著、平凡社1990
『イタリア旅行協会公式ガイド:ヴェネツィア・イタリア北東部』NTT出版

<Web-Site>
http://utenti.lycos.it/cimedauta/【Monte Piana:塹壕の写真】
http://www.cristian.caorle.com/trekking/【Monte Pianaの雪山トレッキング:塹壕も】


 峠のほぼ正面に、頂上が平らな山が見えます。でも周囲の山はほぼすべて険しいゴツゴツなのに、あの山だけが自然の風化や侵食で平らになるのは変です。

 この山はMonte-Pianaピアーナ山(2324m)。第一次大戦で会戦の舞台となった場所、当時オーストリア領チロルとの国境だったのです。

 この頃のアルプスエリアでの戦いは、高い見晴らしのきく場所に堅固な要塞・塹壕を掘り、大砲で戦う・・・地雷でそれに対抗する・・・敵陣に大量の火薬を仕掛け爆破する、大虐殺と同時に山も吹き飛ぶ。

 アルプス山中の厳冬、3年にも及ぶ壮絶な戦いは、きっとこのピアーナ山を、他のドロミテの山と同じゴツゴツした形から、平坦な形にするほど悲惨なものだったと想像します。

トレチメ付近


s-angelo
【27.jpg:左ピアーナ山の裾野、正面:トレ・チメの山、右:Cadini-di-Misurinaミズリーナのカディーニ山群】
<●南チロル問題>

 1970年頃、すでに第一次大戦から50年が過ぎ、さらに第二次大戦も終わった時期にも、イタリアのトレンティーノ・アルト・アディジェ州(南チロル)では、イタリア政府への反抗活動(列車襲撃/政府機関への爆弾など)がオーストリア・ドイツ系の人たちにより行われており、「南チロル問題」と呼ばれていました。

 原因としては・・・
・第一次大戦後(1919年のサン=ジェルマン条約で)イタリアに分割された南チロルのドイツ系農民は、強硬なイタリア化政策で迫害されたのです。
・さらに住人たちは、ナチスドイツのヒトラーが「ドイツ国境外のドイツ人居住地は、すべてドイツに併合する」という政策でドイツに入れると期待しましたが、ヒトラーは同盟のムソリーニに遠慮し除外。問題は第二次大戦後にまで持ち越されました。

 1989年にドイツ語の公用、自治権などが認められるまで、これらの抵抗が続いたということです。南チロルの地名にイタリア語名、ドイツ語名が併記されるのも大変な苦労があったのです。

 現在、経済的にも繁栄し、多くの観光客を受け入れているこの美しい南チロルも、このような戦争の引き起こす民族問題を抱えていた場所だったのです。

(参考資料/Web)
本 『世界の戦史-9:第一次世界大戦』人物往来社1967p212-
本 『三つのチロル』今井敦著、新風舎2004  (内容)
☆ http://ja.wikipedia.org/【wiki/未回収のイタリア(イタリアの領土回復主義)Italian irredentism】
☆ 南チロル【大野さん:私的思い入れのドイツ】   など


s-angelo
【41.jpg:トレ・チメの西の山Occid-le-Westl(2973m)がはっきり見えている】

 キャンピングカーが何台も留まっています。山に行く人、湖で遊ぶ人、峠をドライブする人・・・ゆとりある、豊かな今日にいたるまでの、様々の問題をこの南チロルも抱えてきたのです。そして時間と英知がそれを改善してきたのです。


<3つの岩山を見るには、この先の有料道路を経て、数kmのトレッキングが必要です・・・>
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