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【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】
  【国別地図】  【日本語ガイド本】

Gap ガップの町(ローマ時代の旧名:ウァピンクム)

(2007年の旅でもこの付近に)  【フランス:(05)オート・アルプ県】 [北村 峠一].(Kitamura)     



【ハンニバルの行軍推定ルート(緑実線)、今回のドライブルート(赤点線)、1998年のルート(黒点線)】
●2002/6/9日
 なぜかビデオカメラデータの、この町の部分だけが消えてしまったのです。

 今回の旅で一番ショックだったことは、このことかもしれません。

ガップの町が遠くに見える付近から、助手席の妻がスイッチを入れるのも、私自身がカメラを持ち撮影した町のはずれのカフェ、そして峠道の眺めのよいベンチで、町を見下ろし撮影したのもしっかり覚えています。が、その約20〜30分の部分だけがすっかりないのです。

 私の旅の記録は、すべてビデオカメラの中といっても過言ではないのです。映像だけでなく、感想や時間の記録まで、味と匂い以外のすべてをここに残しているからです。
 (どんなふうにビデオカメラで記録するかは別の場で説明するとして)

 さあ写真なしで、どうやってこの付近を説明したらいいでしょう。気を取り直して地図だけでの苦手な説明をしてみましょう。

●「Gapガップ」のローマ時代の旧名は「Vapincumウァピンクム」

・この町はアルプスの中でも最も恵まれた肥沃の土地で、ガリア人によって作られた。
・ローマ皇帝オーガストゥスAugustusは、紀元前14年に町を制圧し、町の名をVapincumウァピンクムに改名した。
・ここは当時からトリノとヴァレンシアを結ぶ重要な宿場町として繁栄した。
            −−−−−−

 「リヨンからグルノーブルの六月初め、例年はもっと暖かなんですが」と、パリから来てハイキングを一緒にしたYさん達が昨夜言っていたのです。旅をはじめてずっと、小雨交じりの寒さ、楽しみにしていた旅もいささか力が入りません。南下すれば少しはましかと、二泊したクルレの村を引き上げます。

 うっとうしかった雲がすこしづつ切れて、太陽が射し出したとたん、昨年の火ぶくれを思い出して急いで日焼け止めを塗ります。昨夜の歓談、ワインがしっかり利いた十分な睡眠などで、気持ちに若干のゆとりが出てきたようです。

 Festre峠(1441m)を南に下り、鉄道と並行するR994号線を東に。この付近、海抜900m前後のBuechビュエチ川(シストロンでデュランス川と合流する川)にそった見通しの良い丘陵地です。グリモーネ峠から遠くに見えたDevoluy山脈の、なだらかな裾野にそって水平にトレースした道は、山に沿った大きなカーブで、車のスピードも上がります。

 赤い屋根が連なる大きなガップの町、いくつかの教会が見え出し、道はその中世の石造りの町に向かって下っていきます。ここはアルプスの中でも肥えた土地、最初はケルト人、カルタゴが負けた後は古代ローマによって、イタリア・トリノとスペイン・ヴァレンシアを結ぶ重要な宿場町として繁栄したそうです。現在人口3.3万人ほどのこの町は、Provence-Alpes-Cote d'Azurプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方、Hautes-Alpesオート・ザルプ県の県庁所在地です。


 今日の予定は、さらにBayard峠(1246m)、Manse峠(1268m)、Moissiere峠(1573m)を経由して、ポンソン湖付近で泊まる予定。都会は駐車場、交差点、一方通行などと時間を食ってしまいますから、中心部に入らず食料のみ買って北に向かいます。N85号線のBayard峠に向かうジグザグ道、ガップの町が見下ろせるベンチに駐車して、パン、ハム、サクランボの軽い昼にします。

 町の少し南に見える、あの緑の下り斜面あたりでしょうか?

Elephants

●「ハンニバルと象」がこのガップ(推定)を進軍した当時の状況など

  −− ポリビオス(BC200-BC118)の記述による。「」は推定の地名 −−
 ●前のポイント「Serres」←  【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Espinasses」




より大きな地図で 2002Travel-Root-Point を表示
<ここまでの経緯>
 約四カ月前、スペインを出たカルタゴの軍は「ローヌ」川〜「ドローム」川を経由し「ガ」渓谷で奇襲にあい、歩兵2300、騎兵400、象8頭を失う。
「グランダージュ」村、「グリモーネ」峠を越え、敵の町「Serresセール」一帯を占拠。軍全体が三日間十分に足りる食糧を手に入れる。丸一日の休養のあと再び進軍する。

<この地のハンニバル>
 町を出た軍は、東にむかう。この地点での規模は、歩兵3.5万人、騎兵7.6千騎、象26頭。紀元前218年「10月14日」。イタリア国境の峠越えまで残り11日。
 見通しのよい土地を、軍は比較的安全に進むことができた。これは、二日前に山岳族を打ち破ったという情報が近在の部族に伝わり、自分たちの土地を通過するハンニバル軍を攻撃する部族がいなくなったためである。
 ハンニバル軍は「ガップ」付近で野営し、翌朝「デュランス」川にそってさかのぼり、アルプスの「トラヴェルセッテ」峠に向かう。

 ●前のポイント「Serres」←  【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Espinasses」
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・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いしますハンニバル応援

<参考資料>
 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page)
 ・John Prevasジョン・プレヴァス『HANNIBAL CROSSES THE ALPS ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫訳:白水社(J-page)
 ・Hans Baumannハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
 ・The Green Guide:『French Alps』2001 Michelin:(M-page)



●このガップの町は、ナポレオン・ボナパルトが、1815年3月5〜6日に通過・宿泊したところです。

 いったん失脚し幽閉されたナポレオンは、エルバ島を脱出しカンヌ付近に上陸、北上。このガップで泊まり、グルノーブルからパリに凱旋、「百日天下」といわれる再度の皇帝になったのです。

 彼は若い頃からハンニバルを研究し、戦略やその生きざまに惚れ込み、自分こそハンニバルの生まれかわりだと思っていたふしがあります。<Colle di Cadibonaカディボナ峠の紀行も参考に
イベントナポレオン(年:年齢)ハンニバル(年:年齢)
誕生1769年:ナポレオンは、地中海コルシカ島生まれBC247or246年:ハンニバルは、コルシカ島の南約600kmカルタゴ(現チュニジア)に生まれる
総司令官
に任命
1795年(26歳):イタリア遠征軍総司令官に任命される BC221年(25歳頃):カルタゴのスペイン総司令官。
イタリア遠征 1796年(27歳):イタリア遠征の途につき、連戦連勝する BC218年(28歳頃)から:イタリア遠征し、連戦連勝。ローマを恐怖に陥れる
地中海を制する戦い 1798年(29歳-):エジプト遠征。地中海と中東を制すると、世界の文明と商業を配下にできると思い進軍。(3万8千人の軍隊と1万6千人の幕僚、学者、作家、芸術家を船で引き連れ、アレクサンドリア、カイロを占拠。しかしイギリス艦隊にすべての船を沈められ、その地に留まる。・・・そのおかげでエジプト学の研究は大幅に進み、ロゼッタ・ストーン:古代エジプト語翻訳の石などの重要な発見も行われた。) BC265〜BC146年:カルタゴ/ローマの戦いは、地中海の商業・文化を制する戦いであった。カルタゴは、エジプト、シリアにも手を伸ばし、ハンニバル自身ギリシャ語、ラテン語への啓蒙も深かった。
アルプス越え 1800年春(31歳):ナポレオンは4万人の軍隊・3千頭の馬を引き連れて、スイス/イタリア国境、雪のグラン・サン・ベルナール峠(2469m)を越え、マレンゴ・アルコレのイタリアに進軍していたオーストリア軍を急襲、勝利した。 BC218年秋(28歳頃):アルプスの峠を約4万の兵と象でイタリアに攻め入る。その奇襲にローマは大混乱になる。
死去 1821年(51歳):毒殺ヒ素?/胃がん? BC183年(64歳):毒をあおり自害



【ナポレオン街道(緑実線)と、1815年の行軍の日付】
●ナポレオンとハンニバルがすれ違った場所はどのあたりでしょうか。

 ナポレオンは1815年3月1日カンヌ付近に上陸、40人の旗手と10人の手榴弾兵と共に徒歩で進軍します。3月5日朝ディーニュを出発、シストロンを経由しこのガップの町に到着、宿泊。翌6日朝、グルノーブルを目指し「ナポレオン街道」と呼ばれるN85号線を、Bayard峠経由で北上します。

 一方ハンニバルは、紀元前218年10月14日、Serresセレ付近から東に約30km行軍。ガップの南、デュランス川に向かって緩やかに下る斜面で野営。翌15日朝、ポンソン湖方面へ下っていきます。

 その接点は、ガップからN85号線を南に約5km。海抜690mほどの地点ではなかったでしょうか。
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この時間差、2031年と5カ月あまりを同期させてみましょう・・・



【ハンニバルの行軍推定ルート(緑実線)と、ナポレオンのルート(青点線)】

 ナポレオンはエルバ島から脱出しようとしたとき、この地でハンニバルと出会い、彼から復活の力をもらおうと思っていたのです。
わずか400人あまりの部下と、数頭のロバなどに荷を乗せ、カンヌ付近から山の中を進みます。時のルイ18世の守備隊に見つからず、今でも彼を支持している山岳部の村をぬって歩いてきたのです。
丸4日約120kmの歩きは、靴も衣類も埃と汗。デュランス川に沿った道から離れ、ガップの町まであと数km。夕日が西の斜面に近づきました。

 彼の頭の中はイタリアに向かうハンニバル軍が、この付近をまもなく通過することを思い浮かべています。しかし同時に、今はハンニバルに会いたくない、という気持ちを持っています。小柄・貧弱・蒼白という自分の風貌、さらにかつての栄光の地位、現在のわずかしかいない部隊 などを思ったからです。


【ハンニバルと象】

【ナポレオンのエルバ島脱出】

 前方西の斜面、丘の上から騎兵が降りてきます。続いて象・歩兵・荷車・騎兵など数kmにおよぶ軍隊が、逆光の土ぼこりの中を近づいてきて・・・・・司令官ハンニバルがそこに現れたのです・・・・

 時間を越えて、両者がこの地で出会えたことは、ナポレオンに「100日間」の皇帝に復活する力を与えたのでしょう。このガップからは、かなり多くの市民が彼の軍に付いていったのですから。


 もしかすると、あのビデオテープの情報が消えたのは、ハンニバル軍に比較してあまりにみすぼらしい、今の自分を写されたくないナポレオンのいたずらだったのかもしれません?


 ●前のポイント「Serres」←  【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Espinasses」

Gap 参考:
 このGAPガップの町と同名の、カジュアル・ブランド「GAP」(ギャップ)は、1969年アメリカ・サンフランシスコで創設された会社。
世界に4200の店を持ち、フランスにも54店舗ありますが、ガップの町にGAPショップはありません。(近くだと、AIX-EN-PROVENCE,LYON CEDEX,MONTPELLIERにあるようです。)
<僕たちは、Bayard(1248m)、Manse(1263m)、Moissier(1573m)のこの付近の峠を回った後、Ponconポンソン湖のダムの村Espinassesで、ハンニバルを迎えましょう・・・・・>
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