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 Mendelpass/Mendel/Mendelssohn
 メンデル峠/メンデル/メンデルスゾーンの関連:推定  1/30万MAP●峠のDBへ


仮説:メンデル峠、メンデル、メンデルス・ゾーン・・・・これらは、ユダヤ系の地名、人名ではないだろうか?

「メンデル」、「メンデルス・ゾーン」はユダヤ系の人物。「メンデル峠」はユダヤ人の入植の地?ではないのか−−−−−
推定の理由を以下に・・・人物紹介は、年代順で記述してみます。
(ちょっと整理不足・情報不足なので、さらに調べます。皆さんからも何かわかりましたらよろしくお願いします。)

・・・・メンデル峠、メンデル、メンデルスゾーンに関する情報と関連付け・・・・・

●メンデルスゾーン, モーゼス Mendelssohn,Moses1729.9.26-86.1.4
 ドイツのユダヤ人哲学者。北ドイツのデッサウでモーゼス誕生
  主著『感覚について』,『フェイドン−霊魂の不滅について』
  孫は、フェリクス・メンデルスゾーン
   参考資料(B)『西洋人物レファレンス辞典』p1558

●メンデルスゾーン,フェリクス Mendelssohn-Bartholdy,Jakob Ludwig Felix 1809.2.3-47.11.4
 ドイツの作曲家,指揮者,ピアニスト。古典主義的ロマン派の作曲家として名声を博した。
  主作品は『無言歌』
   参考資料(B)『西洋人物レファレンス辞典』p1558

メンデルスゾーン ●メンデルスゾーン,フェリクス Jakob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy
(1809.2.3-47.11.4:)
「真夏の夜の夢の序曲」の作曲。指揮者としても活躍

●メンデルスゾーン,フェリクス
 ユダヤ人の家庭に生まれながら改宗、改名した人の中には、音楽家のフェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディFelix Mendelssohn Bartholdy(1809〜1847)がいる。
彼はモーゼス・メンデルスゾーンMoses Mendelssohnの孫として、ハンブルグで生まれた。そして、このモーゼス・メンデルスゾーンこそは、ユダヤ人がヨーロッパ社会に溶け込むことによってゲットーからの開放を求めようとした、まさにその主唱者である。
モーゼスは、ユダヤ名をモーゼス・ベン・メンデルMoses Ben Mendel(メンデルの息子モーゼス)というが、その「メンデルの息子」の意味を変えずに、ヨーロッパ風のMendelssohn(Mendelに、息子を意味するドイツ語Sohnをつけた名前)に変えて、ヨーロッパ社会に同化しようとしたのである。
ただモーゼスは、個人的にはユダヤ教を棄てず、敬虔なユダヤ教徒としての一生を終えている。ユダヤ人として、ユダヤ教徒のままでヨーロッパ社会への同化を図ろうとしたのだ。

大音楽家となったフェリクス・メンデルスゾーンが洗礼を受けたのは、7歳のときである。6年後には、両親も改宗している。このとき、両親はバルトルディBartholdyと名乗った。このバルトルディという名は、フェリクスの母方の伯父が改宗してプロテスタントになったとき、ザロモンという姓を捨てて、キリスト教徒のように、キリストの12使徒のひとりバトルロマイBaltholmaiにちなんだ名バルトルディと改めたことによるという。

息子のフェリクスも当然、その名をもつことになるのだが、フェリクスは「自分はメンデルスゾーンだ」と言い張ったというのだ。
結局、彼の正式名はヤコブ・ルートヴィッヒ・フェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディJakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdyとなったのだが、フェリクスはMendelssohn とBartholdyのあいだにハイフンをつけなかったという。これは自分と伯父の名前とは直接つながりがないということをアピールしたかったためともいわれている。

フェリクスは、生涯、フェリクス・メンデルスゾーンという名前を使い続けたが、ドイツでは、常にフェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディと、ハイフンつきで記載されていた。

ちなみに同時代、ユダヤ人嫌いで有名だったリヒャルト・ヴァーグナーRichartWagnerはメンデルスゾーンのことを徹底的に批判している。この19世紀に、すでに、のちの迫害につながるような風習があったのである。
資料(A)『人名の世界地図』p299より

●メンデル,グレゴール Mendel,Gregor Johann1822.7.22-84.1.6オーストリアの遺伝学者。56年からエンドウによる遺伝の実験を始め,65年にのちにメンデルの法則として知られた研究を発表
  参考資料(B)『西洋人物レファレンス辞典』p1558

●メンデル,グレゴール 
 チェコの丘陵地帯の中にヒンチーチェと呼ばれる小さな村がある。19世紀には、ここは、ハインツェンドルフというドイツ名で呼ばれていた。1871年頃、村には瓦葺の家が71軒あった。村人は、農家と石灰焼きを職業としていた。農夫の一人アントン・メンデルの家は1684年から先祖代々その村に住んでいた。
アントンは・・・40エーカーの草地で、果樹栽培を・・・1818年にアントンは、村の園芸師の娘、ロジナと結婚した。ヨハンは、1822年に2番目の子供で一人息子として生まれた。
ヨハンは・・・村の学校・・神学校の高等小学校(リプニク)・・王立ギムナジュウムの高等学校(オパパ)・・大学の哲学研究所(オロモウツ)・・1843.9.10ヨハンは、ブルーノの聖アウグスチヌス会聖トマス修道院の修道僧として受け入れられ、グレゴールの洗礼名を授かった。
  参考資料(C)『メンデルと遺伝』p11

メンデル ●メンデル,グレゴール Gregor Johann Mendel グレゴール・ヨハン・メンデル(1822〜1884 オーストリア:ハイゼンドルフ(現在はチェコ)
若い頃から神学、数学、生物学などを身につけ、1947年からブリュンの修道院の司祭をつとめた。1856年から8年間にわたってエンドウを用いた交雑実験を行ない、まとめた結果を1865年に「植物雑種に関する研究」と題して学会で発表した。
「メンデルの法則」
○優性の法則:遺伝子には優性遺伝子と劣勢遺伝子があり、優勢遺伝子と劣性遺伝子が対になって存在する場合は優性の形質のみが現れる。
○分離の法則:1つの形質を表現するのには、2個の遺伝子が対になっていていて、子配偶子には2個の遺伝子が別れてどちらかが入る。
○独立の法則:2種類以上の対立遺伝子は、それぞれ独立して遺伝する。

が、当時の学者に無視される・・・この法則が再発見されたのは1900年で、メンデルの考えは35年間埋もれていた(既にメンデルは故人だった)。


●メンデルスゾーン,アーノルド Mendelssohn,Arnold 1855.12.26-1933.2.19
 ドイツの作曲家。形式的に美しい合唱曲を作り,また歌劇の作もある。作曲家J.L.F.メンデルスゾーンの従弟。
  参考資料(B)『西洋人物レファレンス辞典』p1558

●メンデル,ベネディクト Mendel,Lafayette Benedict 1872.2.2-1935.12.9
 アメリカの栄養学者,生科学者。13年ビタミンAを発見。消化,蛋白代謝の化学反応,成長の生理などに業績を残した。
  参考資料(B)『西洋人物レファレンス辞典』p1558

・Mendelメンデルは、(姓)で用いられ「知識、知恵」の意味を持つ。
・Mendelssohnメンデルスゾーンは(姓)で用いられ「メンデルの息子」の意味
  参考資料(A)『人名の世界地図』p299

●「メンデル峠」は、ボルツァーノの都会から近いが、峠の山道。
・・・推測・・・
旧約聖書を聖典とするユダヤ教は、・・・新約聖書のキリスト教徒が多数いるヨーロッパでは、ローマの時代から迫害を受けていた。

この結果、日本の平家の落人のように都会から離れた、条件の悪いところに入植・住んでいた?
メンデルの峠はそのような人たちが住んでいたところから出た名前ではないか?

参考資料
(A)『人名の世界地図』21世紀研究会編 文藝春秋社文春新書154 p299、p196
(B)『西洋人物レファレンス辞典』U 近世編下 日外アソシエーツ社発行 p1558
(C)『メンデルと遺伝』W.ジョージ著/片岡勝美訳 玉川大学出版 p11.

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