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Leysin スイス:レザン(2002年の再訪)  

 2000年のスイス峠の旅で、芹沢光治良を訪ねこの地に宿泊したのですが、その後いろいろの展開があり、このレザンに来るのは楽しみだったのです。シャレー・エルミーナのフィガロも覚えていてくれたのか大歓迎です。
[北村 峠一]


 今回のフランスアルプスの旅の途中で、わざわざスイス西部のレザンを訪ねた理由は3つあります。
 ひとつ目は作家・芹沢光治良の療養の地を再訪し、もう少し調べたかったこと。 ふたつ目は、前回泊まった宿シャレー・エルミーナのマダムに会うこと。 最後のひとつは、レザンへの行き帰りにForclaフォルクラ峠(1527m) 、Morginsモルジャン峠(1382m)を経由することで、スイスの主要峠をほぼ走破することになるからです。

芹沢光治良:昭和42年
芹沢光治良
せりざわこうじろう
(1896〜1993)
主な作品:「人間の運命」14巻,「巴里に死す」,「愛と知と悲しみと」
日本ペンクラブ会長(1965-74)
<作家・芹沢光治良の療養の地>

 2000年のスイスの峠を走る旅で、Croixクロワ峠、Pillonピロン峠、Mossesモーゼ峠の途中でこのレザンの村に立ち寄りました。この村を訪れたいと思った理由は、私の青春時代に読んだ唯一の文学書、芹沢光治良「人間の運命」14巻に出会ったことからです。以来30数年間、引っ越しにも耐え書棚を飾っています。
 その作品の中で主人公、森次郎はパリで結核になり、レマン湖の東のサナトリウムで療養したのです。作家の実生活でも1925(大正15)年ソルボンヌ大学入学、1927年結核で倒れ、スイスの世界的結核療養地レザンで治療し、翌1928年11月に帰国しています。

 さらに本の中で「晴れた日に、アルプスの眺望台『釜の峠』に登ることが日課だった」との記述があり、その光景を是非見たいと思ってのことでした。その旅の前には、愛読者の会に場所の確認や、当時の絵葉書の写真なども教えてもらっての訪問でした。


 レザンの北側にあるベルヌーゼ山(2048m)からの展望を楽しみ、町に下る途中にあったいくつかの建物が、当時の絵はがきの大学サナトリウムによく似ていることなどを見て、帰国後HPに掲載しました。


【q52.jpg:スイス:イタリア国境の:マッターホルン〜モンブラン付近の山と・・・】


【q47.jpg:スイス:フランス国境の7つの峰・・・】

 
【q05/q15.jpg:当時の療養所らしい建物】
solarium de la clinique
【当時の療養風景:
1930年頃には3000人の患者,80のサナトリ
ウム(診療所),50人の医者、300人の看護婦
・・・レザンの観光協会の新聞より】


 旅の後HPの情報に対して問い合わせがいくつかありました。 芹沢光治良の親戚の方、世界一周の貧乏旅行中に1971年頃レザンに滞在した方、富士見の高原療養所の正木不如丘(まさき・ふじょきゅう1920年代)を研究している方、以前のレザンの風景を懐かしい思い出としておられる方、などからのmailです。



 今回のレザンでは、芹沢光治良が約75年前治療したサナトリウムはどのあたりだったのだろう、当時どんな町並みだったのだろうと、ゆっくり回って見たいと思ったことでした。  当時の建物や鉄道などを見るために、宿のマダムに当時の建物の場所をいくつかマークしてもらい散策します。

 Village駅に向かって歩いている途中で、彼が療養したという写真によく似た建物を見つけます。方向を変え観察しますが決め手はありません。その頃のサナトリウムは約80ほどもあり、当然増改築・・・多くはホテルに変わり、完全に建物を作り変えているところもたくさんあるとのことでした。翌日この町を離れるときも、再度霧の中でしたがいくつか回ってみました。

   
【芹沢光治良写真館:療養したスイスの大学サナトリウムの写真】 【131.jpg:Village駅に登る口のhotel】 【194:町のmap】


【156.jpg:左に上の建物が見え、右にVillage駅方面を。正面の低いところがAigle方面。】


【267.jpg:翌朝、霧の中、車で町の中を当時のサナトリウムの場所をいくつか見る】

 Aigleエーグル〜レザンの登山鉄道は1892年に開業、1916年にはGrand-Hotelまで全通したとのことです。1920年代にここに来た芹沢も、正木もこの勾配のきつい斜面のラックレール方式の歯を観察したのでしょうか。芹沢は帰国後軽井沢にも滞在したので、碓氷峠のアブト式のレールを見ながら、ここレザンを思ったかもしれません。今はもう、そのアブト式の鉄道も走らなくなりましたが。

 【196.jpg:ラックレール方式の第三の軌道】


【1a5.jpg:電車が下りてきて・・・下っていく】

 駅から町の中心にむかう道にも、多分当時と変わらないだろう木造の建物が並びます。石造りの教会に向かって登っていく坂道・・・彼らもここを登っていったのでしょう。


【214.jpg:教会と家並み。多分芹沢光治良の当時とあまり変わらぬ風景であろう】


<宿シャレー・エルミーナのマダムのこと>

 2000年の旅で泊まった宿、Chalet Erminaシャレ・エルミーナは村のインフォメーションで紹介されたところでした。そのとき女主人と思っていた方は実は彼女の友人で、マダムのArianeアリアンさんは旅行中だったのです。旅の後でマダムからお礼のmailを貰い、私の知人やHPでこのシャレーを知った方が泊まるなどもあり、マダムとも幾度かのmail交換があって、機会があれば伺いたいと思っていました。

 今回の旅では、モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)やモン・スニでゆっくりしすぎ、無理かなと思っていたのです。が、せっかく来たのだから高速道路で行ってみようと前日宿に電話します。約400kmを5時間ほどかけて走り、2年目で初めて顔を合わせることができました。増築したシャレの話、芹沢光治良、MTB世界大会のコースの話、日暮里のレストランの話など話はつきません。猫Figaroフィガロも覚えていてくれたのか、すぐに足にまとわりついてくれます。いい子だね。うちの可愛い娘のようだと話していたら・・・オスでした。


【q29.jpg:シャレーからの雄大な眺め】

 
【q70/qb9.jpg:当時女主人だと勘違いしていたIrisさんと、猫フィガロ】

フィガロと、シャレ・エルミーナのマダム
【231.jpg:2年ぶりのエルミーナ。マダムのArianeさんにも会える。】


【215.jpg:二つのシャレを上から見る。上があらたに増築したシャレ。ここも眺めがいい】


【250.jpg:翌朝の眺め。右に新棟が光って見える。でもやはり懐かしいのはこちらの棟・・・地下道でつながっている。】


【佐貫亦男と北島正元:
 1942年マッターホルンをバックに】
<レザンに関するその他の話題>

●佐貫亦男 と 北島正元 と レザン

「佐貫亦男のアルプ日記:山と渓谷社1973年」の「山の友人」の話の中に、「ともにアルプスを歩いた友人、北島正元君が1945年レザンで病死した」とあります。肺結核にかかり、ドイツの療養所を転々としたあと、最後にレザンで息を引きとった、墓もレザンにあるといい、さらに佐貫も一度寄ってみたいと書いてありますが、果たしたのでしょうか。
 記録を調べると当時古河電工の技師、北島正元は、レザンのベルベデーレサナトリウムに入院。1945.9.18肺喀血で死亡。多くのサナトリウムが、現在はホテルに変わっており、多分ロープウェイ近くの現在Hotel Central-Residenceになっている場所ではないでしょうか。

●スイス・レストラン「シャレー・スイス・ミニ」のマスターのこと 

 東京・日暮里にあるスイス・レストラン「シャレー・スイス・ミニ」に会合で行き、そこのマスター(パシュ デニーさん)が、レザン出身であることを知りました。
そのことをレザンのArianeさんに連絡したら「昔から知っている、日本人の奥さんも」とのこと。
 世界って狭いものだと感じます。


【128.jpg:町の中心、Schiller International University American College of Switzerland、鉄道】

<また機会を作ってこのレザンを訪問しようと思います。まだまだレマン湖付近のいくつかの峠も残っているし、Juraユラ方面にも。次回はいつ?
 今回の旅の終着地、アヌシーにむかいます。> https://www.eu-alps.com/
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