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Abries アブリエス(アブリエ)の村・・・あまりにもリアルな遺体が

ハンニバルの進軍状況  ウィンパーが大嫌いな村。山腹の礼拝所、その第14ステーションに眠るキリスト。
フランス:(05)オート・アルプ県】 [北村 峠一].(Kitamura)     

 1861年8月、エドワード・ウィンパーはこのアブリエスの村に来ています。

 そして、英語を読めないこの地の旅館レトアールの経営者に、ウィンパーは高い宿代を請求され、この村を大嫌いになったのです。

 宿で事前に価格を聞かないなんて金持ち?・・・とも思いますが・・・140年以上前(日本は江戸末期:ペリーが来た頃)、ここの地元の人たちは、山に登る趣味人を、皆貴族のように余裕のある人と見ていたのでしょう。

 このあと、ウィンパーはMt.Visoモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)(3841m)の初登攀に挑戦し、失敗したのです。さらにその2週間後、イギリス人のマシュウズとジェーコムが、シャモニーの山案内クロー兄弟を連れて初登攀に成功したとの情報を得たのです。そんなことも、大嫌いになった本当の原因のひとつでしょう。


 ここの旅館−−リシャール経営のレトアール−−は避けたほうがいい。リシャールは泥棒の本能を持っているように思われる。 ・・・・
 旅券にジョン・ラッセル(当時の外務大臣)という名前を見つけ・・・警察への届け書きに私の名前のかわりにジョン・ラッセルと書き入れてしまった。 ・・・・
 そのためにひどく高い勘定書を突きつけられることになった。・・・あらゆる抗議をしてみたが結局は無駄だった。 ・・・・
 私は大嫌いなアブリエスを避けて、そこを通り越し・・・ル・シャルプの村で、干し草のなかにでも寝るつもりで歩きつづけていった。

  『アルプス登攀記』ウィンパー著、浦松佐美太郎訳、岩波文庫(1936.5)上:p78-




chateau-abries-map
【Abriesでギル川は南東に方向を変える】
 4日間いたこのモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山麓で、僕たちはこの村に5回立ち寄り、または通過しました。峠と違いこの谷は行き止まり。さらにこの先に商店はないので。

 でも何度来ても、SPARというチェーン店のスーパー、昼休みは1時〜3時と書いてあるのに、4時になっても・・・翌朝になっても・・・ぜんぜん開きません。店内に電灯はついているし、ドアにそれらしい張り紙もないのです。パン、果物、水などを買おうと思っていたのですが。

 しかたなく開店を待つ間、周囲のお土産屋をぶらぶらしてめったに買わない自分達への小物・・・ランチョンマット、ノートなどを買うはめになりました。さらに同じ並びの喫茶店で、おばさんに聞くつもりが、アイスクリームを買って食べることになったりして・・・この村全体の作戦かもしれませんね。

 レトアールという旅館も見つかりませんでした。大昔の話ですし、ウィンパーの本の記述で、お客が来なくなってしまったとか?
−−−−−−

 何度も往復していると、正面北の山の中腹にある礼拝堂、そこに続く参道が気になります。登ってみましょう。

 さわやかな空気、でも強い陽射しに少し汗ばんで斜面を登っていきます。石の祠が番号順に続き、キリストがゴルゴタの丘に引かれていく「十字架の道行き」の絵が描かれています。


【121.jpg:山の中腹の礼拝所にむかう参道が見えます】

 
【101.jpg:南向きの日当たりのよい道】  【027.jpg:結構きつい傾斜。点々と続く石の祠の中には、キリストがゴルゴタの丘に引かれていく絵が】

 
【080.jpg:教会の入り口は閉まっていて・・・脇のドアを覗くと・・】 【0d5.jpg:第14ステーション】

 そしてこの第14ステーションと書かれた薄暗い石の部屋をのぞくと・・・白い裸足が、そして裸の・・・ドキッとします。あまりにリアルなキリスト像がそこに横たわっていたのです。
 左の腕に抱えた野の花はすでに乾燥し、色もほとんどありません。・・・この花を手向けたのはいつのことだったのでしょう。

【0a8.jpg:一瞬驚きます。足が・・そして裸の遺体が・・・暗い岩の室の中に・・・】
 【●旅の絵本へ】   【●Wall-Painting アルプスの壁絵・壁画 へ】


 目を南に向けると、モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)の山に向かう道が、ギル川にそってずーっと遠くまで続いています。この静かな村にあまりそぐわない、人気のないリゾート・マンション群。スキーシーズンには賑わうのでしょうか。


【abries017.jpg:村の全景。手前の建物はリゾート・マンション。ギル川が向かっている先がモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山の方向。】


【050.jpg:参道から:モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)方面の山。花。水場。祠・・・】


【215.jpg:村のスナップ:ホテル、商店、観光案内所、教会、学校、子供たち】

参考URL:
 ・http://www.queyras.com/ケーラス地域のHOTEL一覧など。
 ・http://www.queyras.org/ケーラス地域のHOTEL一覧など。
【●近隣の峠DB:渓谷先端Valpreveyre】
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Elephants

●「ハンニバルと象」がこのアブリエス(推定)を進軍した状況など

 −− ポリビオス(BC200-BC118)の記述による。「」は推定の地名 −−
 ●前のポイント「Ville-Vieille/Aiguilles」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Ristolas」




【ハンニバルの行軍推定ルート(緑実線)】


より大きな地図で 2002Travel-Root-Point を表示
<ここまでの経緯>
 約4カ月半前スペインを出たカルタゴの軍は、「ローヌ川〜ドローム川〜デュランス川〜ギル」川をさかのぼる。案内人の計略で、「ケーラス」渓谷で崖の上から岩による大襲撃をされ、歩兵6千、騎兵7百、象6頭と今までにない多大の死者を出す。さらに多数の負傷者も。紀元前218年10月18日朝、「シャトー・ケーラス」を出発、「ヴィル・ヴィエイユ/エギーユ」を経由しこの地に。

<この地のハンニバル軍>
 「ケーラス」渓谷で受けた地元部族からの大きな襲撃に対し、ハンニバルは反撃をせず先を急いだ。一刻も早く、雪と氷で閉ざされる冬のアルプスの峠を越え、イタリア・ローマに向かおうとしたためである。

 この先の村の地元民も大量の軍に驚き、近くの山に隠れ軍が通り過ぎるのを待つばかり。ハンニバルの軍には今、この先の道を知るガイドがいない。・・・彼らはこのギル川をさかのぼるのが、イタリアに抜ける最短ルートと判断した。

 アルプスの登り道から8日目。イタリア国境の峠越えまで残り7日。
 軍の規模は、歩兵2万9千、騎兵6千9百、象20頭。

 ●前のポイント「Ville-Vieille/Aiguilles」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Ristolas」

・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いしますハンニバル応援

参考資料:
 この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本は以下のものである。
 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page)
 ・John Prevasジョン・プレヴァス『HANNIBAL CROSSES THE ALPS ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫訳:白水社(J-page)
 ・Hans Baumannハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
 ・The Green Guide:『French Alps』2001 Michelin:(M-page)
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<ギル川をさかのぼり、Ristlasリストーラの村に向かいます・・・・>
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