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Sudetenlandスデーテン地方と、フリンブールFrymburk情報

 ここ70年間の歴史を中心に・・

チェコ:ボヘミア地方】[北村 峠一].(Kitamura)      

・10世紀以降の神聖ローマ帝国のもと、チェコは実質ハプスブルク家の配下で安定した時代だった。

・1800年代からのナポレオンの台頭、ドイツ統一などでオーストリアの力が減退した以降、ドイツ人は徐々にチェコの国内に居住を広げ、第一次大戦(1914-18)でチェコ・スロバキアが独立した以降も、さらに勢力を広げた。

・1938年までには、チェコの周辺エリア(スデーテン地方Sudetenland/Sudetengau)には、ドイツ人が300万人(人口の約40%)も居た。
  <フリンブールもスデーテン地方。90-100%がドイツ系だった>

・1938年ヒトラー政権はオーストリア(3月)、スデーテン地方(9月)をドイツに併合、スロバキアを分離独立させた。
 スデーテン地方のチェコ人は強制退去、ユダヤ人(11万人)は収容・虐殺などが行われた(国外逃亡も)。<フリンブールも同様>

Frymburkフリンブール
【cz-sl1938-39:1938-39年のチェコ、スロバキア、各地域の分離関連図】

Frymburkフリンブール
【german-cz1938-9:1938年のチェコのドイツ人分布・比率】

Frymburkフリンブール
【german-cz1938:スデーテン地方とドイツ人の比率。赤がフリンブール。】

・1939年第二次大戦が始まり、チェコ全域もドイツ占領下に。さらにドイツ純血民族体制が強化、戦線は拡大する。

・1944年以降連合国の反撃、1945年ヒトラー自殺(4月30日)、ドイツ降伏(5月8日)で欧州戦線は終決。チェコ・スロバキア共和国復活。

Frymburkフリンブール Frymburkフリンブール
【アメリカ軍の攻撃ルート:「第二次世界大戦」河出書房(p185)から。赤がフリンブール】 【r712p.jpg:Frymburkフリンブールの広場の石碑:「1945.5.6アメリカ軍のフリンブールの開放に感謝」】

・1945年の戦後スデーテン地方では、ドイツ系住民ほとんどの300万人が強制的国外追放され、資産も没収された(〜1950年)。大部分はドイツに逃亡(バイエルン州に約4割)したが、追放時の殺害、衰弱、飢えなどで24万人以上が死亡した。没収土地・財産は国有に。
(1982年統計:チェコ国内のドイツ人は数万人(0.4%以下)しかいない。)<フリンブールも同様>

・1960年リプノ・ダム湖が作られ、フリンブールの大多数の人が高台の地域に移住

・1989年東西の壁崩壊。

・1993年チェコとスロバキア分離独立。

・1997年ドイツとチェコは「スデーデン地方関係の和解宣言」に調印、はじめて両国関係を正常化。

・2004年チェコEU加盟。


<関連するサイト>

 ○http://www.frymburk.info/【Frymburkガイド】
 ○http://www.ckrumlov.cz/【Frymburkの歴史など】
 ○http://de.wikipedia.org/【wikipedia】
 ☆チェコスロバキアの歴史【第一次大戦後、スデーテン地方のドイツ人など】
 ☆スデーデン地方関係【1997年の和解宣言など】
 ○Das Munchner Abkommen【1938年頃のチェコ・スロバキア解体併合状況。
 ○Karten zur Bevolkerungsverteilung【1880-1930年のドイツ人分布図・変化】
 ○Sudetengau/Sudetenlander【ドイツ人分布地図】
 ○Sudetenland (Reichsgau)地図Wikipedia解説
 ○Die Sudetendeutschen【1910年頃からの言語分布など解説・地図】

<関連書籍・地図>

 本:『物語チェコの歴史―森と高原と古城の国』薩摩 秀登 (著) 、中央公論新社
 本:『チェコとスロバキア―歴史と現在』大鷹節子著、サイマル出版会



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