![]() 【ヴァール峠付近から見るBrec de Chambeyron(3390m)。 頂上の円錐を斜めに切ったような斜面、残雪。 一瞬、モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山と勘違いしました)】 |
![]() 【348.jpg:リストーラの宿のまわりの柵の中に・・・南米のラマが】 ![]() 【tour-8.jpg:ラマと一緒にイタリア国境のハンニバルの足跡をたどる】 |
![]() ![]() ●「ハンニバルと象」がこの地(推定)を進軍した状況など
紀元前218年6月、スペインを出た歩兵3万8千、騎兵8千、象37頭のカルタゴの軍は、何度かの地元族の奇襲で1万人ほどの被害を受けるが、約4カ月半でこのギル川源流に10月18日頃到達。すでに冬も近づく高度2千mを越える地。気温が下がり、時には雪もよう。この先の峠道の工作、軍の再集結、休養のためこの付近に留まった。 実は、前方に派遣した道路の工作隊からハンニバルに、「トラヴェルセッテ峠のイタリア側の斜面はあまりにも厳しい。傾斜、雪、岩などの条件があまりにも悪く、強靭な兵士のみでも大変である上に、象、武器・食糧などの荷車を含む全軍を通過させることは無理」との報告があった。 一方ここ2日ほど、休養をとらせている後続の兵士側からも「体力を回復させるための食糧が、先の2回の奇襲で底をついたこと。雪が降り始め、特に朝夕は水も凍る寒さをしのぐための、テント・衣類なども失っている。死んだり役の立たない馬などを食べ、空腹をしのいでいるが、一刻も早くの対策を」との判断を仰いできていた。 さらには「負傷者、弱者の衰弱ばかりか、軍の傭兵などの士気も衰え、このままではハンニバルに敵対し、離反しかねない状況もある」との報告すらも来ていた。 10月21日早朝、ハンニバルは、軍の最前線の「トラヴェルセッテ」峠近くの平坦地に、全部隊の部隊長・指揮官を召集する。指示の時間に合わせて登ってくる隊長達の、革布で覆った足元は、前年の残雪や昨夜の雪の積もった岩場、冷たく滑りやすい。 朝日がようやくフランス側の山肌を射しはじめる。真っ青な空。400人を越える全部隊の指揮官がこの平坦地に集まる。ハンニバルはその先の高い岩の上にいる。
ハンニバルは彼らを、その集結地から峠の頂上に連れて行く。稜線に立つと、澄んだ空気の中、眼下にポー川の源流、イタリアに下る渓谷、そしてイタリア・ピエモンテ平野全体を越えて、遠くミラノ方面から、ジェノヴァの丘陵地まで見渡せた。 ハンニバルは彼らを奮起させ、この険しい崖を下山させるため、大声で演説をする。 ・・・イタリアを指差し、「この先のすべては、我らカルタゴ軍のものだ。ローマを守っていたアルプスを我らはすでに制覇したのだ」 と。そして・・・「翌朝、全軍で下る」・・・と指示する。 アルプスの登り道から11日目。峠を越え、イタリアの平原に到着するまで残り4日。 軍の規模は、歩兵2万9千、騎兵6千9百、象20頭。 参考資料: この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本も参考にした。 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page) ・John Prevasジョン・プレヴァス『ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫:白水社(J-page) ![]() |
![]() 【濃い緑実線+点線:Guilギル川〜Belvedere du Visoヴィーゾ大見晴台〜 Traversetteトラヴェルセッテ峠を経て、ポー川源流のルート 左下・黄色のルート:Agnelアニュエル峠の自動車道路】 |
![]() 【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】 【国別地図】 【日本語ガイド本】 |